天岩戸の秘密と熾仁親王の許嫁、三人の皇女和宮

< 霊界物語四一巻に示されていた >

 今月号は出口禮子が著した「天皇の黒幕と天岩戸の秘密」『ムー』二〇〇四年十二月一日号を再掲載し、明治維新の真相に迫ります。そして次号以降で、『霊界物語』の記載を織り交ぜながら、皇女和宮と有栖川宮熾仁親王、上田よねの真実に迫りたいと思います。

 出口王仁三郎の恋人と冠句の師匠・清之助

 王仁三郎曰く。秘密の「秘」は、「必ず示す」と書く。命がけで隠し通した歴史の秘密も時めぐりくれば真実の姿をさらさずにおかないのだろうか。私の夫、出口和明は生涯をかけて祖父・出口王仁三郎を顕すべく生きた人であった。彼の著、大河小説『大地の母』全一二巻(昭和四六年~四八年 毎日新聞刊)は、大本(教)の創成期を揮身の力を込めて描いたもので、私もその取材に深く携わった。老境にさしかかった今、当時では書ききれなかった王仁三郎の実父・有栖川宮熾仁親王と和宮の最期について世に知られざる新事実を語りたい。それは二年前(九年前)に逝った和明の遺志でもある。 

 もう四〇年も昔のことであるが、いま思えば、その後、私たちの歩んだ道は見えない一本の糸で、一教団の枠を超えた近代日本の歴史の深い闇へと導かれていたような気がせずにはおれない。『大地の母』は小説とはいっても、フィクションではなく、あくまでも細かい事実の検証と積み重ねによる歴史小説である。昭和三五年、大本教団では上田正昭、村上重良、林屋辰三郎など錚錚たる学者を編集参与に迎えて教団史編纂の大事業がスタートし、昭和三七年には上下巻三千ページにおよぶ『大本七十年史』が完成していた。しかし、公的な教団史では無視されがちな王仁三郎や初期の大本関係者たちの人間臭いエピソードのからみ合いによってこそ、はじめて明かされる真実というものがあるのではという思いで、取材に奔走していた。 

 その過程で私たちは上田喜三郎〈王仁三郎の本名〉の青春を彩る女性たちについて、調査することになった。手がかりは、王仁三郎の残した回顧歌集『故山の夢』『霧の海』である。王仁三郎は相手の立場を慮ってか、実名はいっさい記していないが、幸い、王仁三郎が生まれ育った亀岡の山間の集落、穴太の里には、若いころの王仁三郎を知る古老たちが何人もおり、「喜三やん」にまつわる思い出を楽しげに語ってくれた。

 こうして私たちは、歌集から摘出した王仁三郎の「七人の恋人」について次々と特定していくことができたが、そのうちのひとりに八木弁という女性がいた。昭和四四年の春、私たちは、亀岡の千代川村にある八木弁の生家を捜し当てたが、ここで二重の不思議な暗合に遭遇することになる。

 私たちを暖かく迎えてくれた当主の八木次男氏(図一)は、弁の父・八木清之助が明治二九年から書き留めた膨大な和綴じの日記を持ってこられたが、その表紙には「度変窟烏峰」の名が墨書されてあったのだ。若き日の王仁三郎が冠句に熱中し、偕行社というサークルまでつくっていたことはよく知られている。穴太の小幡神社には、その創立一周年に王仁三郎の奉納した額が残っている。冠句は江戸中期から流行した俳句と川柳を混ぜたような大衆文芸である。季語はなく、選者が五七五の最初の五の題を指定して、それに応じて参加者が七、五と続け、その優劣を競うのである。 回顧歌集や奉納された額から判断すると、王仁三郎の冠句の師匠は「度変窟烏峰」という人物であるが、いったいどこのだれなのか、皆目わからないままであった。ところが喜三郎の恋人、八木弁は「度変窟烏峰」の娘だったのだ。それだけでも驚きであったが、この烏峰こと八木清之助の経歴には尋常ならざるものがあった。清之助は動乱の幕末裏面史に深くかかわっていたのだ。和宮の遺骨が眠る亀岡の謎の石塔(図二) 弘化四年(一八四六)、千代川村拝田に生まれた清之助は、一四歳で京都のある宮家に中間奉公することになったという。そして翌文久元年(一八六一)、泣く泣く関東に降嫁する和宮の供として江戸へ下っているのだ。「小石川藩邸にて」と裏表紙に記した和綴じの本が残っていた。小石川藩邸というと、水戸藩の江戸屋敷に滞在していたのだろうか。

 さらに清之助は、いわゆる七卿落ち(図三)に際しても長州まで同行している。実際、昭和七年十一月二七日にゆかりの京都洛北にある妙法院で、七卿西走七〇年記念の法要が行われた際、「七卿落ち当時からの唯一の生存者」として八木清之助(当時八八歳)と丹波から伴ってきた八木義一郎が出席したことが写真入りで当時の新聞に報じられているのだ。それは、ただの中間ではない。七〇年の後、最後のひとりとなっても名を記されていた。同志の扱いではないか。八・一八の政変で京都での地位を喪失した長州藩は、勢力挽回のため、藩主父子の雪冤と七卿の赦免を朝廷に願いでるがむなしく、さらに翌元治元年(一八六四)六月には池田屋で藩士多数を殺戮されたため、武力による宮中制圧を策し、ついに三家老が兵を率いて上京。七月一九日、会津・薩摩藩と蛤御門付近で交戦するが敗北する。いわゆる禁門の変である。 このとき在京中の長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允 図四)も身辺に危険が迫り、但馬出石に落ち延びる。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに芸妓の幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。ここまでは一般に知られている物語だが、いったいどういう経路で出石まで落ち延びたのかは、詳らかではない。ところが八木次男氏によれば、桂小五郎は八木清之助を頼って京を抜け、拝田の清之助の家のわら小屋にかくまわれたという。清之助が、桂を八木、園部をへて、但馬、出石へと逃がすルートを確保したのだ。「逃げの小五郎」といわれるほど用心深い彼が、清之助には一命をあずけている。私は骨のままであるらしい玄関協のゆがんだトタン屋根のわら小屋から、桂小五郎と越えたという拝田峠に視線を移した。ふもとには、十四、五軒の農家が散らばる。 「うちの脇を通らんと峠には行けん。それに、昔はもっと狭い、ひどい道やったげな」と、次男氏は八木に向かってせり上がっていく峠を指さした。母屋の裏手は崖で、なかほどからふたまたになった見事な松の大木がある。崖を上った奥に、小さなお地蔵さんが二十余り並び、ひっそりと五輪の塔(三重の塔として現存していたが、その後地震等のため今の形は留めていない)が建っていた。その前に湯気の上がったご飯と水が供えられている。「あれは……?」「和宮さんの墓ですんや」と次男氏。「なにか和宮の遺品でも納めてあるのでしょうか」と、和明。「いや、祖父は分骨だと、これを子孫代々供養せいと」 清之助さんの遺言をしっかり守る次男氏の言葉に迷いはない。しかし、和宮の分骨とは?和宮の遺骸は徳川家の菩提寺である増上寺(図五)に葬られているはずだ。たしかに清之助は和官の降嫁に際してお供として付き従ったが、そんな中間は何人もいただろう。いったい下々の者に皇女の遺骨を分骨するというようなことがありえたのだろうか。現代の庶民においてさえ、よほど生前から縁のある者でなければ考えられない。それ以上に辻棲が合わないのは、当時の上層階級が土葬だったことである。土葬の遺骸からどのように分骨するのだろう?疑問は次々湧いてきた。 だが、なぜかはわからないが、和宮の分骨がこの墓にある。そう和明が信じるのには少し理由があった。私たちは大本教団でもタブーとされてきた王仁三郎の有栖川宮熾仁親王落胤伝説を追跡し、それがほぼ事実であるという確信を深めていた矢先であった。 そして有栖川宮家が廃絶となった現在、和宮の魂が引き寄せたいのは、いとしい熾仁の血を継ぐ王仁三郎、そして和明にほかならなかったのではないだろうか。それならよし、さびしい和宮の御霊を慰めることができればと、昭和五〇年八月三一日、和明は生まれて初めての祭主を買って出て、有志の者たちとひそやかにこの基前で和宮慰霊百年祭を執行した。昭和五十年同月一日付の「人類愛善新聞」は、その模様を次のように記している。 「……この塔が和宮の墓であるなど、ほんの最近まで近所の人すら知らなかった。それが八木家の人以外に知られたのは昭和四十五年、出口和明氏が『大地の母』執筆の際、調査のため八木家を訪れてからである。和明氏は『大地の母』で出口王仁三郎師の若き日の事跡を調べていた。とくに〈王仁師の有栖川宮熾仁親王落胤説〉の調査に没頭していた。その途中、この事実を知らされたことに、〈何か因縁のようなものを感じる〉と和明氏は言う…」こうして、王仁三郎の青春時代の恋人というまったく関係のないラインから、熾仁親王の許嫁である悲劇の皇女、和宮の影が浮かびあがってきた。それだけに、この和宮の分骨の話は、闇に封印された彼方の世界からの、なにか貴重なシグナルに思えたのである。そして実際、それはそのとおりだったのだ。