皇女和宮の写真秘話

「HP写真が紐解く幕末明治」に森重和雄氏が「皇女和宮の写真秘話」ということでさらに意見を記しています。(引用)「まず、柳澤明子は明治三五年(一九〇二)五六歳で亡くなっているわけだから、当たり前だが当然、この間に撮影された写真ということになる。次にこの写真を撮影した写真師・清水東谷について調べてみると、清水東谷は明治三七年(一九〇四)に亡くなっているので、これは問題ないけれど、実際は明治十五年(一八八二)に清水東谷は養子の鈴木東谷に家業を譲っており、しかも鈴木東谷は横浜の太田町十一番地で開業していることから、問題の写真は明治十五年(一八八二)以前に清水東谷が東京で撮影した可能性が高い。 また、柳澤明子の夫・柳澤保申が明治十七年(一八八四)に伯爵となり、明治十八年(一八八五)三月には久能山東照宮宮司となっていることを考慮すれば、ざっくり明治十五年(一八八二)頃に撮影された写真という仮説が考えられる。 (柳澤保申は明治二六年(一八九三)十月二日、郡山旧邸内で死去。享年四八歳。) 明治十五年(一八八二)といえば、柳澤明子三六歳の時ということになる。この写真が柳澤明子三六歳の時の写真というのは、そういう年齢の女性の写真として僕には納得できる。もっともこれは僕の主観にすぎないので、これで百%柳澤明子だと完全に断定できるわけではないのだが、まぁ、少なくとも和宮の写真と考えることよりはましのような気がする(引用終了)柳澤明子と皇女和宮は同い年であった! 柳澤明子の夫君、柳澤保申(図十)、松平時之助保申は大和郡山藩の第六代(最後)の藩主(郡山藩柳澤家七代)ですが、慶応四年(一八六八)の戊辰戦争では新政府に協力して東北戦争に参加し、主に後方の輜重部隊の役割を果たしています。このとき、松平姓を捨てて柳澤姓に戻しています。明治二年(一八六九)六月十七日、版籍奉還により知藩事となり、明治四年(一八七一)の廃藩置県で免官されました。明治十七年(一八八四)に伯爵となります。 柳澤家は譜代でありながら、松平性の名乗りを許されていました。甲府から大和郡山への移封に際しても減俸されることもなく、将軍の寵臣であったが没落せず、従四位下の官位と領地を保持したまま幕末まで存続した大名家です。 江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名柳澤吉保をはじめ、将軍の寵臣の係累でありながら柳澤家が没落しなかった。 柳澤明子には、重要な皇女和宮との共通点がありました。和宮の生年月日は弘化三年閏五月十日(一八四六年七月三日)、柳澤明子は一八四六年生まれ、同じ生年で、ともに貴族の出自で皇室の文化と一体となることができ、自然に振る舞える。和宮の替玉にはまさにふさわしいわけです。 柳澤明子が常時、和宮として振る舞っていたとは思えません。和宮が生きていることを証明するために、写真に和宮として撮影されるなどの条件で、限られた役割をしていたのではないか。何しろ、柳澤保申夫人という立場があるはず。写真ももっと古いものもあったのではないか。ウィキより要旨を引用します。(要旨引用)和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・家達〈徳川宗家十六代当主〉をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉(図十一)へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言があります。程なく明治十年九月二日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。三二歳という若さでした。当初、政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われました。墓所は東京都港区の増上寺(ウィキ)。〈恒註 清水東谷は、明治五年横浜で写真館を開業するが、すぐ東京に移転しているので、洋装姿の和宮の写真は明治五・六年の撮影だと思う。南部郁子は一八五三年生まれなので、明治六年とすると、一八七三年で、南部郁子二十歳の頃の写真となり、相応の容姿と考える。南部郁子は貴族の家に輿入れし、明治三年に夫が米国留学しているほどで、時代を先取りした鹿鳴館風の服装で撮影することも、不可能ではないと思う。和宮が暗殺されたならば、和宮の遺言は疑問。〉和宮明治十年死亡は偽装か 私は、和宮が明治十年になくなったというのは、明治二年に暗殺された和宮を隠しきれず、そのように偽装したのだと考えています。薨去する前に、和宮を知る人のいない箱根に移動したのも怪しいと思います。地元住民は和宮の顔を知りません。本年十一月号『神の国』誌記載「調査団宛の手紙」の老婆が指摘するように、遺骨は、明治二年に殺害された和宮の骨をとりおいて東京に持って帰りましたが、それを使用したのだと思います。なぜか老婆が指摘する、和宮が亡くなった地、箱根山中と同じ、箱根塔ノ沢で薨去したことになっています。 なぜ、和宮の公式の死亡時期に明治十年九月二日が選ばれたかというと、日本最後の内乱、西南戦争(図十二)で西郷隆盛と総司令官、有栖川宮熾仁親王(鹿児島県逆徒征討総督)が率いる官軍の戦いが同九月に終わったからでしょうか。有栖川宮帰任までに和宮が死亡していた必要があったのかもしれません。 いずれにせよ、西南戦争を政府は乗り切ったことで、過去の時代の象徴、和宮の存在は名目的にも必要がなくなったのでしょう。十月十日に熾仁親王は、陸軍大将および元老院議長に任命されます。 柳澤明子が皇女和宮の役を果たしえたのは、明治二年から京都滞在の数年でしょう。柳澤明子の写真が撮影された場所は、東京の清水東谷写真館ですから、案外明子自身は東京に住居をしていたのかもしれません。しかしできれば明治七年から十年まで東京に在住するもう一人の、替玉としての皇女和宮が必要となるのです。娘を明治天皇、徳川家茂の猶子に嫁がせた一条忠香の娘、柳澤明子 和宮は新政府から、戊辰戦争や政局の混乱で延期されていた上洛を願い出るよう促されます。「父君である仁孝天皇陵の参拝と、徳川家に寛大な処分を新政府がしたことへのお礼をするため、和宮は上洛を願い出たいが、徳川家の経済状況はよくなく、また江戸の市民がそれをどのようにとるかを考えると、和宮からは願い出ることはできない。適切な名目で朝廷から上洛を命じて欲しい」と希望します。橋本実麗からは明治天皇の東京(明治元年七月十七日に改称)行幸が終るまでは見合わせるようにと止められます。 明治天皇は明治元年十月十三日の一度目の東京行幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称しました。その後一度京都に戻り、明治二年の二度目の東幸以降は東京に留まりました。大室寅之祐明治天皇は、天皇の正体を見破れる和宮との面会を行うことはできない。大室寅之祐が東京に留まるならば、和宮は京都の地に留まられなければならなかった。 昭憲皇太后(図十三)〈嘉永二年(一八四九)~大正三年(一九一四)は睦仁親王を含む明治天皇の皇后です。旧名は一条勝子といい、従一位左大臣一条忠香の三女です。徳川慶喜に嫁いだ美賀子とも義理の姉妹となります。明治天皇の夜伽の相手をすべて決めた実力者 高倉寿子(図十四) 柳澤明子は、昭憲皇太后の姉であり、女官長高倉寿子は、昭憲皇太后の意向を受けて、明治天皇の毎日の夜伽の相手のすべてを決めていたほどの実力者でした。柳澤明子と和宮親子内親王の写真を見間違うわけがありません。 皇女和宮が暗殺されたと推定される時期は、雑誌『ムー』に記載の、「調査団宛の手紙」を出した老婆の記述から推定すると、和宮が入京する前の明治二年一月二十日頃。 明治元年十二月二六日(一八六九年二月七日)、昭憲皇太后勝子は美子と改名します。同月二八日(一八六九年二月九日)入内して女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられました。明治二年一月二十日(旧歴)頃、皇女和宮が暗殺されたのならば、美子が皇后に立てられてすぐに皇女和宮は亡くなったことになります。そこに関連はないと信じたいのですが。