有栖川宮熾仁親王と和宮の帰洛

 和宮の夫君、徳川家茂は慶応二年(一八六六)七月二十日、満二十歳にて逝去。熾仁親王は天保六年(一八三五)二月十九日生まれですので、この時、二十九歳。私はこの晩婚は、和宮親子内親王に立てた、一種の貞操なのだと考えます。それだけ親王の和宮への思いは深く、無垢だったのでしょう。慶応三年(一八六七)九月に徳川斉昭娘の貞子と婚約勅許になります。ところが、この結婚は熾仁親王の本意ではなかった。そして斉昭の息子、徳川慶喜の大政奉還を名目に婚姻が延期されます。徳川家は朝敵だということなのでしょうか。 私は徳川貞子との婚姻の有栖川宮の逡巡の背景には、徳川家茂の夫人となり、かつ未亡人となった和宮親子内親王と結婚したいという強い意志があったからと考えています。 熾仁親王が東征に出発したのは、明治元年(慶応四年)(一八六八)二月十五日。御所御学問所で明治天皇に謁見、節刀と錦旗を賜り東征に出発します。そして京都に入ったのが旧歴明治元年(一八六八)十月二十五日。明治天皇の京都御所での即位の御大礼は八月二七日ですので、即位大礼の後となります。 翌明治二年(一八六九)、一月十八日に和宮一行は東海道を京都へと向かい、二月三日に京都へ帰着。私の推理では帰洛前に暗殺された?のですが。和宮がこの時を帰洛の時期と選んだのは、恋する有栖川宮熾仁親王が十月二五日に帰洛したという情報が入ったからではないでしょうか。 和宮が帰洛し熾仁親王も帰洛すると、二人の結婚が現実味を帯びてきます。そして熾仁親王も皇女和宮も、大室寅之佑が明治天皇であることを知り抜いていますし、明治維新の真相も知っています。そして和宮の夫君、徳川家茂の暗殺に徳川慶喜が関与したかもしれないということも。 徳川斉昭の十一女、徳川貞子は兄慶喜の養女です。徳川慶喜は朝敵であり、貞子は慶喜との縁組を解消して婚儀に臨んだとされ、ようやく熾仁親王が徳川斉昭の娘貞子と再度婚約したのは、明治二年(一八六九)九月十九日のことでした(図十五)。 明治二年一月二十日頃に皇女和宮が暗殺され、有栖川宮熾仁親王が有栖川宮家の侍医であった中村孝道の縁で、少なくとも明治二年二月二十一日から十月二十七日までの七十回近く、出口王仁三郎の母、上田よねと逢瀬を重ねたであろうことは、『神の国』誌二〇一一年十二月号に記載のとおりです。 ここで、和宮親子内親王の夫君、徳川家茂の暗殺についての山岡荘八の推理を松重楊江『二人で一人の明治天皇』たま出版から見てみましょう。将軍家茂暗殺の真相(引用)第二次長州征伐の最中、慶喜、慶永らの命を受けた宮中の医者によって将軍家茂(図十六)が毒殺されたが、この事件の背後には、幕府に反抗する長州とこれを支援する薩摩、すなわち薩長同盟があった。これについて、山岡荘八氏は次のように述べている(『明治百年と日本人』~月刊ひろば四三/一一所収)。「私が調べたところによると、(家茂が)息をひきとるとき、御小姓組番頭の蜷川相模守(元蜷川京都府知事の祖父にあたる)が、ただ独りで側に付き添っていた。この人が漏らしているだけで、あとは極秘になっていて、病気で亡くなったことになってはいるが、将軍は亡くなった七月二十日の四、五日くらい前に、風邪気味でふせっていた。そこへ『宮中からさし回された』といって医者が訪ねてきた。名前ははっきりしていない。 孝明天皇と将軍とは、和宮が降嫁されてから非常に仲が良かったから、何も疑わずに、この医者を居間へ通した。脈を診て、「いや、大したことはありません。ではこの薬を召し上がってください」といって薬を調合して置いて帰った。それを飲んで、それから三、四日目に亡くなっているわけである。 将軍の胸のあたりに紫の斑点がでて、大変苦しがって、その蜷川という御小姓組番頭に、骨が折れるほどしがみついたまま息を引き取った。この蜷川相模守という人は、五千石の旗本であるが、この人がずっと遺体に付き添って、江戸まで持って帰った。そしてこの死を発表したのは、一月たった八月二十日になってからだ」※カッコ内は筆者松重氏補筆。 この時、大阪城定番(城代家老の次席)は渡辺丹後守章綱(伯太藩主/一万三千石)であったが、その嫡子の宮崎鉄雄氏によれば、宮中から医師を案内してきたのは長州藩士の品川弥二郎で、城中に手引きしたのは定番の下役某であったという。だとすれば、この暗殺は薩長同盟と慶喜または慶永の側近の手によってお膳立てされたことになる。このような薩長同盟の忍者たちによって行われた将軍家茂の暗殺は、さらに孝明天皇の暗殺へと続いていく……。 吉田松陰が安政の大獄で処刑されたあと、水戸藩の激派は密かに長州藩を援けようとし、藤田小四郎は長州の中忍・桂小五郎から四百両の軍資金を貰って天狗党を決起させた。…公武合体派の徳川、会津、薩摩の連合軍によって京都から追放された長州は、天狗党の挙兵に乗じて勢力回復を図ろうとし、再び京都に集結し始めた。その矢先の元治元年(一八六四)六月五日の夜、突如新撰組と見廻組によって河原町の池田屋を襲撃され、長州系の志士たち多数が斬殺されたり捕えられたりした。 かくして、六月中旬から七月上旬にかけて、長州藩は京都に派兵。伏見、嵯峨、山崎に布陣して、七月十九日、長州軍の発砲をきっかけに、「蛤御門の変(禁門の変)」が起こった。しかし薩摩軍の変心のため、わずか一日で長州軍は敗北し、来島又兵衛、久坂玄瑞、眞木和泉ら多くの勇士が戦死した。そのため、天狗党が挙兵した意味は失われてしまった。…水戸と長州の「成破の約」と「日本改造計画」 その後、天狗党は水戸鎮派の武田耕雲斉が隊長となり、一橋慶喜(図十七)に頼る方針に決した。 だが慶喜は、池田屋の変のあと、長州藩が大挙して大阪湾に上陸した際には、戦いを避けて長州説得を試みた。そのため、宮廷では「一橋どのは長州と通じている」などと公然と噂されていた。慶喜はいわば手兵を持たない「裸の王様」であり、幕閣が賊とした天狗党を助ける蛮勇も持ち合わせていなかった。おまけに、天狗党の水戸勤皇派は内部分裂によって長州を助けることもできず、慶喜を孤立させて、歴史の進行を遅らせただけとなった。同じ南朝正系論を信奉する水戸と長州の「成破の約」は、こうして破綻するのである。 しかし、「成破の約」のもう一つの密約は着実に実行に移されつつあった。すなわち、熊沢天皇家を擁する水戸藩と、大室天皇家を擁する長州藩が手を結び、南朝革命を実現せんとするものである。それによって水戸藩は徳川家の存続を、長州藩は毛利公の将軍位奪取を目指した。したがってこの密約に将軍家茂と孝明天皇の暗殺が含まれていたことは間違いない。だが孝明天皇を亡き者にしたとしても、陸仁親王が跡を継いだのでは皇統は南朝に戻らない。したがって、陸仁親王もすり替える必要がある。かといって、長い江戸時代を通じて家臣の身分となった熊沢家の者を、再び皇位に戻すことは公的に不可能である。 かくして、熊沢天皇に代わる大室天皇の出番となり、ウラ毛利の上忍・益田親施と中忍・吉田松陰の命令で、早くから下忍・伊藤俊輔(博文)が守役となって育成していた「玉」大室寅之祐を世に出す陰謀が開始されたのである。 これを実現するためには、まず勤皇派の結束を図らねばならない。無論、水戸家出身の一橋慶喜もこの計画に加担していたことは言うまでもない。薩長同盟を演出した坂本竜馬は勝海舟の命を受けており、勝は慶喜と相談していたという。その相談とは、「勤皇派と協力する南朝革命によって王政を復古し、改めて南朝系天皇から征夷大将軍を拝命して徳川家を安泰ならしめよう」というものであった。これが慶喜と勝による「日本改造計画」で、慶喜は得意の二枚舌を使って佐幕、勤皇両派の幹部をコントロールしようとした。そしてその計画を実現するために、海舟の命を受けた竜馬は「薩長同盟」の成立に向けて奔走していくことになったのである(引用終了)。明治維新の秘密共有をする支配層 松重氏のこの著書内容の真偽は、私はこの時代を生きてきたわけではないのでわからない。松重氏が徳川家茂の暗殺者を徳川慶喜とするのは、徳川家茂と孝明天皇の暗殺、大室寅之佑を世に出すことを含む、徳川慶喜と勝海舟の「日本改造計画」の一環とみたからでしょう。だとすると、徳川家茂の御台所、皇女和宮暗殺も日本改造計画に含まれていたのではないか。勝海舟も品川弥次郎、大室寅之佑も、西郷隆盛も、広沢真臣も、坂本竜馬も、桂小五郎(木戸孝允)も、岩倉具視の子供達も、ともにフルベッキ写真に写っている幕末の志士。フルベッキ写真の維新志士の群像が日本改造計画の担い手たちなのかもしれません。徳川家存続につき同床異夢の部分があったとしても。 もし一橋(徳川)慶喜の日本改造計画が事実であり、それが奏功したならば、明治維新時の支配層は、徳川家紀州派の徳川家茂と孝明天皇、皇女和宮を、親族の口止めとともに暗黙のうちに葬り去り、それらに代わる大室寅之祐明治天皇と徳川慶喜の縁戚で固めたはず。そこには維新の秘密を共有し漏洩させないという目的があるはず。その中に心ならずも巻き込まれた人たちに、出口王仁三郎の父、有栖川宮熾仁親王、旭形亀太郎、八木清之助がいるのではないか。 日本改造計画が中途半端で露見するならば、維新政府首脳は、一網打尽となって、反対勢力により粛正される可能性があります。それを防ぐ方法はただ一つ、後に出口王仁三郎聖師の父となる、皇女和宮の元許嫁、有栖川宮熾仁親王を、「日本改造計画」の全貌を明かさないで、自分たちの仲間に引き入れてしまうこと。それは成功しました。 南部郁子のドラマ 朝敵の汚名返上 次は「陸奥国盛岡藩 南部利剛 息女 郁子」『お嬢様の明治維新』別冊歴史読本からの引用です。(引用)慶応四年(一八六八)一月三日、京都洛外の鳥羽・伏見に端を発した戊辰戦争は、全国三百藩に旗幟を鮮明にする事を迫った。盛岡藩(岩手・二十万石)は奥羽越列藩同盟に加わり、西南諸藩軍を主体とする新政府軍と対決する道を選んだ。 時至って同年七月二十七日、列藩同盟から離脱した秋田藩(二十万五千石)に、楢山佐渡を総大将とする二千の軍勢で五街道より一挙に攻め入った。緒戦は連戦連勝。しかし新政府軍の反転攻勢の前に大敗を喫した。 降伏後、新政府から「朝敵」の烙印を押され「官位剥奪」「城地没収」の処分を蒙った藩主南部利剛(図十八)は隠居、世子彦太郎十四歳を謝罪使に立てて寛大な処置を願い出た。だが許されず、父子は佐渡を始めとする反逆首謀三奸らとともに江戸に召喚されて籠居させられた。この年の九月八日、年号は明治と改元されたので、明治元年十二月二日の事である。 盛岡藩は、朝敵の汚名を返上する事を喫緊の最重要案件と捉え、新政府に謝罪する事に決定、この非常事態の打開を、執政に復帰した家老東次郎に託した。次郎は盛岡藩では少数派の勤王方である。徳川方に与する事に異議を唱えて藩主の逆鱗に触れ、領地に蟄居を命ぜられていた者である。敗戦で蟄居を解かれ、難局に対処する任に就いていた。郁子姫の宮家入興浮上 次郎は利剛の親書を携さえて京都に赴き、議定官池田慶徳に謁見を申し入れて許された。慶徳は利剛の正室松姫(歌名明子)の実弟で、鳥取藩(三十二万五千石)主。水戸藩主斉昭の子である。同じく子で実弟の将軍徳川慶喜とは早くに袂をわかち、藩論を勤王に決して新政府内に重きをなしていた。 慶徳は利剛の親書を披見し、その公議人(太政官の諮問機関・公議所の議員)の沖守固に命じ、以後、「次郎と一体となり諸事を弁ずべし」と親しく謀計を授けた。次郎は慶徳の謀計によって、新政府の参与官広沢真臣(長州藩士)(図十九)の知遇を得た。 謝罪は、広沢らの計らいで朝廷の受け入れるところとなり、次郎は利剛上洛を願い出た。ところが、難題が持ち上がった。「藩の謝罪は受け入れるが、官位を剥奪された前藩主利剛を許した訳ではない。前藩主の処遇については、いまだ、議定におよんでおらぬ。よって朝廷としては、独り利剛のみの上洛を許す訳には参らぬ」 多額の工作資金が必要であった。次郎は断念を広沢に伝えた。盛岡藩は降伏後、七万両を謝罪金として新政府に提供していた。多年にわたった東エゾ地警備費用の捻出で藩財政は火の車、金策の手立ては無きに等しい。 広沢は代案を提供した。「わしは今、内国事務係を兼ねておるが、これは宮家の縁結びをする仕事である。創始したばかりの華頂宮博経親王はまだ独身。然るべきお妃候補があらば、盛岡藩が他に先んじて手を打たれてはどうか」 「適任の姫君がおられます」。次郎は胸を躍らせて即答した。「どなたの姫君でござるか」 「されば、世子彦太郎君の姉君にて郁子姫(図二十)と申され、まことに﨟長けたお方でござる」「申し分のないお話である」 広沢は賛意を表したが、「当今は金次第でござってな」。五万円の持参金が必要であった。 「祝い事となれば別。藩主らはもとより、御用達商らも喜んで協力致しましょう」 次郎は、上洛嘆願の路銀と公卿・弁事らへの賂〈賄賂〉に大枚を費消して名を得るより、姫君に持参金を持たせて宮家に入輿させ、実利を取る事で汚名返上ができるものと考えた。華頂宮は四親王家中もっとも重きをなす伏見宮邦家親王の第十二王子で、京都の知恩院の門跡(王子が当たる住職)であるという。 さて、郁子姫は利剛の正室の子ではない。正室松姫の入輿は安政四年(一八五七)だが、世子彦太郎(のち利恭)は安政二年十月九日に盛岡で誕生している。母は家臣宮治兵衛の娘静子、利剛の側室である。郁子姫も御前様(静子)から嘉永六(一八五三)八月に生まれている。ちなみに、利剛と正室との間に子はない。…入興工作に関する資料 郁子姫の宮家入興工作がどのように進められたかにつき、興味深い資料がある。『南部次郎政図之伝』(白井新太郎記)である。白井は次郎の次女の夫で会津の人。次郎は晩年、南部名乗りを許された。これに次郎(図二十一)の工作が詳細に書かれてある。 「即ち皇族と婚し以て謝罪の実を明らかにせんと請う。広沢参与官らがこれに賛し、遂に藩主の長女華頂宮家に入るを約せり」 この文脈は、次郎側から婚儀を働きかけたように受けとれる。次郎は藩主の家門につながる名家の出だが、その評価は、毀誉褒貶が相半ばする人物といわれている。伝には、白井の身贔屓の筆致が随所に散見されるので、割引いて読まなくてはならない。 これと微妙に異なる今一つの資料に『幽囚目録』がある。目録は、反逆首謀三奸の一人として、麻布下屋敷の長屋に佐渡らと幽閉された、藩校作人館教授江幡梧楼(のち那珂通高)が明治元年十二月二日から翌年十月三日までの十ヵ月間を記録した日記である。梧楼は十八歳で脱藩、全国遊学中に長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄となった人物である。明治二年八月二十日の項に、「華頂宮親王の儒員、長岡謙吉といえる者と相談し、親王へ郁子姫君御縁約の内談せんとの書面来れり」 さらに同年八月二十九日の項に、「東(次郎)の西京(京都)にての振舞い、奇怪なるよしにて、華頂宮儒員長岡など、別人に面会したき旨云々」、九月二十六日の項に、「昨日、木戸準一郎(孝允)相尋ぬべしと、長岡謙吉へ云々」、九月三十日の項に、「容道(芝の和尚・盛岡藩のために種々の工作をした)より書簡来たり、準一郎ぜひ速やかに対面したき由にて、長岡謙吉来たり居たる聞に来らるべしとの事にて云々」とある。これで考えると、長岡が東京で種々の工作をしている事と、広沢と同郷の木戸も華頂宮家への郁子姫入輿で動いた事実がわかる。よって、次郎一人の成果でなかった事がわかる。しかし、次郎は華頂宮との交誼を深めていき、郁子姫の弟英麿を宮とともに清国への留学を実現させている。 「宮の留学費用は全額宮室費を以て、公子英麿は南部家費を以て、(中略)宮は留学三年にして病を以て帰朝せられ、公子もまた大成せず(中略)。 宮はしばしば次郎の邸に遊ばれ、或いはその邸を借り、或いはこれを買われて思寵浅からず。交じり水魚の如し」『南部次郎政図之伝』にはこのように記述されてあるが、宮は志願して明治三年にアメリカに留学、海軍の軍事を学び、海軍少将に累進、明治九年五月二十四日に二十五歳で薨去している事と、整合性を欠くのである。 ともあれ、清国へであれ、アメリカへであれ、皇族の海外留学の嚆矢ではあった。 郁子姫は、博経親王が亡くなられてから三十二年後の明治四十一年に薨去した。彼女は南部家安泰のための道具に使われた人身御供だったかもしれないが、宮とは仲睦まじかったといわれる。ただし、第二代の博厚親王は、明治十六年にわずか九歳で薨去、必ずしも家庭運には恵まれなかった。さらに第四代博忠親王は大正十三年に薨去。嗣子がなかったので、同年宮家は廃絶された。南部家は、郁子姫の宮家への入輿で朝敵の汚名は雪がれ、曲折を経て城地の回復も成ったが、郁子姫の生涯は激動の時代に翻弄されたものといえようか(引用終了)