日本改造計画と皇女和宮すり替え

 私はこの文章をみていくつか気になったことがありました。 南部次郎が謁見を申し入れて許された池田慶徳は、水戸藩主斉昭の子供であり、実弟に最後の藩主徳川慶喜がいること。新政府の参与官広沢真臣(長州藩士)の知遇を得たこと。広沢真臣は明治四年一月に暗殺されています。 「華頂宮親王の儒員、長岡謙吉といえる者と相談し、親王へ郁子姫君御縁約の内談せんとの書面来れり」と、華頂宮親王と郁子姫ご縁約の内談を記しているのが江幡梧楼(のち那珂通高)で、十八歳で脱藩、全国遊学中に長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄となった人物とのこと。南部次郎だけでなく、広沢と同郷の木戸も華頂宮家への郁子姫入輿で動いた事実。しかし次郎は華頂宮との交誼を深めていき、郁子姫の弟英麿を宮とともに清国への留学を実現させていること。清国といえば、マッソンの東洋本部、米国ニューヨークといえば、マッソンの中枢を想起し、海軍といえば、それらの時に受け皿と見る見方は極論と言えますが。華頂宮博経親王は二人いた可能性はなかったのか? 日本の田舎の藩である盛岡藩の救済のために、徳川斉昭や徳川慶喜の関係者がからみ、長州藩士広沢真臣までが関与していること、長州の吉田松陰と肝胆相照らす間柄の人物が『幽囚目録』の記録者として登場している。 いったん朝敵となっても、娘を持参金とともに宮家に差し出せば、藩自体が救われる。そのような解決策が有効ならば、どの朝敵とされた藩の藩主も娘を差し出すでしょう。 これだけの大物が動くのは、薩長同盟、あるいは日本改造計画の密約の一つに、皇女和宮のすり替えがあったのではないかと想像します。華頂宮博経親王は徳川家茂と孝明天皇の猶子 しかしそれを激しく否定する自分自身がありました。まず南部郁子は日本の東北である、朝敵とされた盛岡藩の女性であり、かつ盛岡藩主南部利剛の正室の娘でもない。皇女和宮と本来、何のゆかりもないはず。何か単純な間違いではないか?和宮の替玉となることなど、親王が夫君として許すはずがないではないか。確かにその美貌、品位は皇女にふさわしいものではあるが……。そのように考えながら私は伏見宮邦家親王第十二王子である華頂宮博経親王の年譜を調べてみました。嘉永四年(一八五一)三月十八日誕生嘉永五年(一八五二)十月十二日知恩院相続(門跡)万延元年(一八六〇)八月二七日孝明天皇猶子万延元年(一八六〇)徳川家茂猶子万延元年(一八六〇)十一月二九日親王宣下・名を博経とする万延元年(一八六〇)一二月二九日落飾・知恩院門跡・法名尊秀入道親王慶応四年(一八六八)一月七日復飾・復名博経親王慶応四年(一八六八)一月十日華頂宮家創設明治元年(一八六八)九月一八日元服明治三年(一八七〇)六月アメリカ留学明治五年(一八七二)八月病気帰国明治九年(一八七六)五月一三日任海軍少将明治九年(一八七六)五月二四日薨去 博経親王は、南部郁子の間に博厚親王をもうけていました。 華頂宮博厚親王(明治八年(一八七五)一月十八日~明治十六年(一八八三)二月十五日) 華頂宮博経親王第一王子で伏見宮邦家親王の孫。母は伯爵南部利剛の長女郁子。 明治九年(一八七六)五月二十四日の父王博経親王の薨去を受けて華頂宮の家督を継承する。明治初年に皇族の範囲・賜姓皇族の方針を定めた。それによると博厚親王は臣籍降下する事となっていたが、明治天皇の思召しによって皇族の身分を保ち、明治十六年(一八八三)二月十五日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去。僅か八歳であった。 親王は幼少であった為継嗣はなく、伏見宮家から博恭王が入り華頂宮を相続する。博恭王はその後本流である伏見宮を継承するはずであった邦芳王が病弱であった為、伏見宮に復籍し家督を相続、華頂宮は博恭王の第二王子博忠王が継承する事となる(ウィキ)。南部郁子は皇女和宮の義理の娘だった   洋装姿の和宮の写真が、実は南部郁子の写真だった。それは南部郁子が和宮の替玉である傍証とはなりますが、決定打とまではいかない。南部郁子が輿入れした華頂宮博経親王は、知恩院に入寺して落飾し、尊秀入道親王と称しましたが、明治維新後還俗して、知恩院の山号・華頂山にちなんで華頂宮の宮号を賜り一家を創設しました。 一八六〇年には、博経親王は、孝明天皇と徳川家茂の猶子だったのです。当時の公家の養子には三種類あり、養子、猶子、実子の三種類です。禁中並公家諸法度で、公家が女系の縁で養子を取ることは禁止されました。際限なく公家が増え、費用がかかることを防止する措置でしょうか。 猶子とは、明治以前において存在した、他人の子供を自分の子として親子関係を結ぶことです。ただし養子とは違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつきが弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)が強いといいます。実子は、他人の子供を「実の子供」とするわけですから、生家の系譜から抹消されます。養子と猶子は生家の系譜から抹消されないわけですね。 だから現在の感覚とは多少異なりますが、博経親王は、皇女和宮から見て、兄である孝明天皇の子、すなわち甥であり、和宮の夫君である徳川家茂の子、義理の子供であったわけです。 さらに不可解なのは、南部郁子と博経親王の間に生まれたとされる博厚親王です。伊藤博文は、口止め料として爵位を乱発したといわれますが、宮号も乱発したのでしょうか、伏見宮邦家親王は、十七人の王子と十五人の王女がいます。その十二王子である博経親王にまで宮家の創設を許しているのですが、この宮家は本来一代限りで、博厚親王は臣籍降下するはずでした。明治天皇の思し召しで皇族の身分を保ち、明治十六年(一八八三年)二月十五日に明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去します。 このような破格の待遇は、裏を返せば、それだけ握っている秘密が大きいことを示すのではないかと思います。当時、すべてが白日のもとにさらされたならば、日本には、「玉」である天皇が乱立し、それぞれに外国勢力がついて、内戦がとめどもなく広がり、日本が分割統治されたかもしれません。 いずれにせよ、自身の写真が皇女和宮とされた南部郁子妃の輿入先は、北朝最後の天皇、孝明天皇の子息の家系であり、かつ第十四代将軍徳川家茂の家系でした。南部郁子妃は、和宮から見て、義理の子、姪の関係に持つことになります。そして、和宮が京都にいたとする明治三年から五年には、華頂宮博経親王は、アメリカに留学して、五年に病気帰国することになります。ただ博経親王が清に留学していたという伝聞もあり、謎に包まれています。病身の身で明治九年に海軍少将を任じられ、翌日薨去します。 明治九年には、孝明天皇とその妻、和宮、徳川家茂の系譜を猶子として担う博経親王は、薨去してしまいます。これで維新の元勲たちによる口止めは完了したのでしょうか。 ここまで読まれて、鋭敏な読書の方は気づかれたと思います。再び記します。皇女和宮は東京の南部家の屋敷に居住していた 和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院(図二十二)・家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七年)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった……。 和宮は、再び東京へ戻ることを決め、明治七年(一八七四年)七月に東京に戻っています。柳沢明子は大和郡山の藩主の妻の身、ここでの皇女和宮を南部郁子と推定しましょう。 私が『神の国』誌前号、十二月号で和宮と天璋院との確執を掲載したのは、本来二人は天敵のような存在であり、協働で大奥を守ることはあったとしても、自由な状態で、皇族や天璋院・家達などと幅広い交流などすることはありえないことを記したかったからです。和宮は江戸でも御簾の中に入り人に姿を見せず、そのためか入浴も月に一度くらいだったとする伝聞もあります。もし幅広い交流をするような女性であれば、真っ先に有栖川宮の姻戚との交流があったはずです。 和宮が生きていたのならば、有栖川宮熾仁親王が、官位を返上してまで京都に留まることはなかった。官位を返上して、出家してでも和宮と一緒になったはず。しかし和宮が江戸でいっしょに過ごしたのは、陸奥国八戸藩の第九代(最後)の藩主で明治初期の政治家、南部(島津)信順です。信順の長男は南部栄信であり、家督を信順から譲られます。明治五年に八戸から東京に移り住み、明治七年(一八七四)二月に南部利剛次女の麻子と結婚します。南部郁子は、利剛の娘ですから、麻子とは姉妹になります。南部(島津)信順は島津重豪の十四男です。 そして、島津重豪薩摩藩主の曾孫が島津斉彬(図二十三)であり、その養女が天璋院篤姫なのです。系図をみておわかりのように、島津家と天璋院、南部家は親せき同士であり、東京へ越した皇女和宮の替玉、南部郁子が姉妹の義父である南部信順の屋敷に居住することは当然です。天璋院と交流を持つのもまったく自然。宮家に入ることが生涯の念願だった南部郁子は、幸か不幸か、華頂宮に嫁いだもの夫君に死なれ、和宮として過ごすことになります。南部郁子はその親戚、南部信順の屋敷で過ごすことで、明治維新の秘密の保持を果たすことになります。このように、明治七年以降、東京に滞在した皇女和宮親子内親王が、南部郁子であることは、間違いのないことと考えます。 ひとつわからないのは、皇女和宮の左手首(図二十四)です。それは亀岡市の八木清之助の家系の家で、明治二年から五輪の塔の下で眠っているのでしょう。 先述の「失われた和宮の左手首を巡る謎」の中で、「和宮は座棺ばかりの墓地の中で唯一、寝棺で葬られていた。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである……」と記載しました。京都から江戸に降嫁するときに、お迎えの者など二十万の行列を得た皇女和宮が、いくら明治に時代が変わったといえども、病死し、皆から葬られる時に副葬品ひとつないことはありえない。暗殺されたからこそ、遺骨だけ江戸に届けられ、増上寺に葬られた。だから和宮から家茂への遺言はなかったのではないか。寝棺にガラス版を入れたのは、側近でしょうが、そのような小さなものを唯一、和宮の居住地から探し出して棺に入れることは考えにくい。つまり、ガラス板は、京都へ行くときに持っていったものでしょう。有栖川宮が明治元年十月二五日に帰洛し、その有栖川宮に逢いに行ったと考えると、その場所に徳川家茂のガラス板を持っていくのはふさわしくない。増上寺の、和宮の寝棺の中の遺品となる、和宮の両腕の間に抱きしめていた小さなガラス板は、当然有栖川宮熾仁親王の姿を写していたと思う。そして、皇女和宮薨去が、有栖川宮熾仁親王と上田よねの逢瀬につながり、出口王仁三郎聖師の出生につながるのです……。