解決すべき問題

 皇女和宮が明治二年一月二十日頃に岩倉具視らに暗殺され(図一・八木清之助の家の裏山に建てられた皇女和宮の墓と伝承の五輪の塔)、そのことが有栖川宮熾仁親王の東京行拒否、有栖川宮家の侍医であったと思われる中村孝道の縁を通しての、伏見での上田よねとの出逢い、出口王仁三郎聖師の誕生につながったことを推論しました。そして、盛岡藩最後の藩主南部利剛の娘、南部郁子妃と、昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩主柳澤保申の妻、柳澤明子の二人が、和宮が公式に薨去したとされる明治十年頃までその替玉の役目を果たしたであろうことを著述してきました。明治十年とされる公式な皇女和宮の葬儀に関与したのが伊藤博文です。図二は欧米視察の岩倉使節団の写真ですが、維新の元勲たちが映っています。 しかしまだ不明な解決すべき問題があります。一、皇女和宮の公式記録では、明治十年九月二日に、和宮が薨去されたことになっている。当然、大がかりな葬式が行われ、ご遺体の改めも行われたはず。そのご遺体自体も替玉であったのですか。二、小坂家で発見されたという、皇女和宮の写真について、どういう経緯で撮影されたことになっているのか記録は残っていないのですか。もう少し説得力が欲しい。この二点です。和宮を密葬した阿弥陀寺水野和上の証言 皇女和宮は私の援用する『調査団宛の手紙』の老婆の指摘では、明治初年に箱根山中に暗殺され、公式記録では、明治十年九月二日に箱根塔ノ沢で薨去されたことになっている。その和宮の密葬をされた箱根阿育王山阿弥陀寺のホームページ上で、第三八世和上、水野賢世(図三)が和宮について記載していますので、引用させていただきます。(引用)和宮親子内親王は、弘化三年(一八四六)閏五月十日未刻(午後二時頃)、仁孝天皇第八皇女として生まれた。母は典侍橋本経子(議奏権大納言橋本實久の女)、のちの観行院である。仁孝天皇は多くの后妃との間に七男八女をもうけられたが、大半は夭逝して、成人したのは三人のみ。姉の敏宮と兄、のちの孝明天皇、そして和宮であった。 和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化三年一月二六日にお風邪がもとで病死なされている(御年四七歳)。御誕生後、七夜に当たる閏五月十六日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。 和宮は六歳の時、有栖川宮家の長男熾仁親王(天保六年二月十九日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は十七歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら六歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、 孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである〈図四は皇女和宮の絵であり、真実の和宮の容姿を示しているのではないかと私は感じています〉。 和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、一メートル四三センチ、 三四キロくらいだったとのこと。和宮は成長して十四歳を迎える頃、熾仁親王は二五歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。 この時代は日本にとって重大な政治問題が山積、国際的な問題も多々あり、国内的には尊王攘夷を旗印として倒幕を目指す連中の力を殺ぐためには、 「公武合体」即ち江戸と京都の間で政略結婚を行う以外にないと幕府は考えた。ときの将軍は紀州家から来た家茂(弘化 三年閏五月二四日生)であった。 大老井伊直弼(図五)は早くから公武合体を望んでいた。そうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激高すると、次々と捕らえて投獄した。いわゆる安政の大獄である。吉田松陰、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内など前途有為の人が犠牲になった。その後暫くして、今度は井伊直弼自身が水戸浪士など凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。 図六は、映画「桜田門外の変」の映像です。 井伊大老横死の後、 老中 久世広周、安藤信正らの画策により、万延元年(一八六〇)四月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。 和宮は拒絶した。帝も妹宮の胸の内を思いやり、この結婚には反対の旨を幕府に伝えたのである。しかし幕府は諦めず何度となく圧力をかけて来た。帝は「仕方がない。それでは去年生まれた娘壽万宮〈岩倉具視の実妹堀河紀子の長女、孝明天皇第三皇女〉を江戸へ送ろう。嬰児では困ると幕府がいうなら、退位しよう」と、帝は関白九条尚忠に手紙を宛てて信条を述べた。この手紙の写しが新大典侍勧修寺徳子と勾当掌侍高野房子の両名により和宮の所へ届けられた。書面には「壽万宮を江戸へ」と書かれたあと、帝は「一人娘のことで、少々寂しくはあるが〈第一皇女、第二皇女は死去していた〉」と添えられてある、その書面を見せられた和宮は胸を衝かれた。 「私が我を張り続けているために、まだ乳のみ子の壽万宮が江戸へ送られる。そればかりか、話がこじれれば帝は退位するとおっしゃっておられる」。和宮は血をはく思いで「承知」の一言をもらされたのであった。 文久元年十月二十日辰刻(午前八時)、和宮の行列は江戸に向かった。幕府はこの時とばかりと、衰えぬ威勢を示すため、お迎えの人数二万人を送ったという。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢二十万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り、計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。京より他の土地を知らない宮の御心を慰めようと、途中名勝を通る時など御輿をお止めして添番がご説明申し上げたという。和宮は、その時つぎのような一首をつくられたのである。 落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ 大好きであった熾仁親王と別れて来た。その人の面影を想い、涙を流したことであろう。 十一月十四日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約一ヵ月後の十二月十一日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。【皇女和宮= 第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇(図七)に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】 …和宮は数え年三二歳になった頃より脚気の病になり、 伊藤博文公の勧めにより明治十年八月七日から箱根塔之沢の「元湯」に静養のため滞在され、 一時よくなられて歌会を開かれるまでに快復されたが、二六日目の九月二日、俄に衝心の発作が起こり、この地で他界されたのである。 すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである。しかし和宮の遺言「将軍のお側に」とのお言葉が取り上げられ、九月十三日、増上寺での本葬となった。御遺骸は芝の増上寺に眠る夫君、徳川十四代将軍家茂公の隣に葬られた。御法名は「静寛院宮贈一品内親王好譽和順貞恭大姉」と申し上げる……(執筆 水野賢世)入那の国は京都、セーラン王は孝明天皇・熾仁親王か 『霊界物語』四十一巻には「入那の国」が出てきますが、私はその国を日本の京都を中心とした地域とみています。韓国語では、日本の「日」を「イル」と発音します。ハルナの国が「ハル・東」、ナ・「地」を示し、東京を示すように、那とは出口王仁三郎聖師の記述では、国や地を示していますから、当時の日本の中心、京都を示しても不思議ではありません。そして『霊界物語』の発表された当時、韓国は日本に併合されていましたから、「イル」という発音が「日」を示すことは、知られていたと思います。 ちなみに、テルマン国は、関東・江戸ではないかとするのが私の推定です。テルマンの「言霊返し」は「トルマン」と同様「ツマ」であり、「ホツマ・秀妻」の国、優れた国、日本の東部なのでしょう。テルモン国も「照る紋」という意味で、三葉葵の紋などが翻る江戸かなと考えています。 そして、右守司カールチンは、時の右大臣岩倉具視を示すのではないかと考えています。現実の歴史では、岩倉具視は実の妹、堀河紀子を孝明天皇の典侍〈高級女官の最上位〉とします。堀河紀子は、典侍でも天皇の寵愛を当初は一身に受け、皇子女を生む側室の役割を持つ者でした。実際に壽万宮と理宮の二人の宮をもうけています。 四一巻のセーラン王は、孝明天皇であり、かつその次の天皇として予定されていただろう有栖川宮熾仁親王を指すと考えています。とすれば、セーラン王の、当初は寵愛を受けた妻、カールチンの娘、サマリー姫は、堀河紀子を示すのでしょうか。