和宮降嫁に隠された三人の庄屋の娘和宮

 さて、水野賢世和上が執筆されているように、和宮降嫁に当たり、庄屋の娘三人が替玉に立てられたことがわかります。 …道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢二十万にもなった。公武合体に反対の連中から護るため、庄屋の娘三人を、和宮と同じ輿を造り、計四つの御輿で中山道を通って江戸へと行列は続いた。……と、和宮の降嫁に伴う江戸行きの当初から、皇女和宮には、庄屋の娘、三人を替玉としていたことがわかります。ここで和宮が替玉と馴染み深いことがわかりますし、沿道や警備、お迎えの、和宮を見た人の四人に三人が、偽物の和宮を本物として認識したことになります。 そして、次にわかったことは、和宮とされる小坂家所蔵の、真偽はともかく伝えられる出自です。小坂家所蔵 皇女和宮の写真の出自 皇女和宮は一八四六年五月十日生まれ、和宮降嫁は一八六一年であり、十二月十一日、和宮は江戸城本丸大奥に入ります。皇女和宮はその時、満十五歳、小坂家所蔵の皇女和宮の写真は、十五歳の時の写真となりますが、とてもその年齢の女性にはみえません。小坂家所蔵の写真は、私にも三十歳後半以降の女性の写真に見えます。この写真は、古写真研究家の森重和雄氏の調査では、明治十五年(一八八二)頃に撮影された、柳澤明子の写真とわかっています。だから、阿弥陀寺に保存された和宮の写真は、真実のものとは言えないでしょう。明かに和宮の写真であるはずがないのに、なぜ阿弥陀寺はこの写真を和宮の写真としているのか謎が残ります。なぜ、明治天皇は和宮に東京滞在を進めたか和上のHPの中に次の記述があります。  慶応四年(一八六八)四月九日、和宮は江戸城を出て清水邸に移られた。 その後、京都に帰住されるため明治二年一月十八日、東京(明治元年七月十七日、江戸を東京と改称)を立ち京都に向かわれた。京都在住は明治七年六月までの五年に及んだ。 既に東京に移られていた天皇のお勧めにより、東京移住を決心された和宮は、明治七年六月二四日京都を立ち、七月八日、東京に到着、かねて用意されていた麻布市兵衛町の御殿に入られた。和宮はここで三年有余を過ごされたのである… ここも疑問です。明治天皇が大室寅之祐であれば、寅之祐の素性を知る皇女和宮と会うことを避けるはず。しかし大室寅之祐天皇は和宮に東京在住を勧めた。明治二年には京都在住を命じたに関わらず。すでに皇女和宮は南部郁子に入れ替わっていたからではないでしょうか。 南部郁子の姉、麻子は八戸藩九代藩主南部信順(薩摩藩主島津重豪の十四男)の子、南部栄信と結婚します。栄信は明治五年(一八七二)に八戸から東京に移り住み、明治七年(一八七四)二月に麻子と結婚、同年十一月アメリカに留学するも、明治九年(一八七六)に病のため帰国します。同年三月に死去し享年十九です。麻子との間に子は無く、南部家の家督は麻子が継いだとのこと。 ちなみに、麻子の妹、皇女和宮の替玉の疑惑がある南部郁子(和宮の義理の子・姪)の夫、華頂宮博経親王が米国に留学したのが明治三年で、明治五年八月に病気帰国し、明治九年五月に薨去します。和宮の公式な死去の年、明治十年の前年に、替玉和宮としての南部郁子をもっともよく知る、郁子の義兄、南部栄信と、郁子の夫、華頂宮博経親王が薨去されたのは偶然なのでしょうか。なぜ皇女和宮(実際には南部郁子)ともあろう富裕な人が、自宅ではなく、いかに義兄の家とはいえ、他家で世話になり暮らしたのか。実際には、栄信が家督を継いだ当時、南部家の財政事情は苦しかったとされ、明治七年(一八七四)に旧八戸藩江戸藩邸を一万五千円(当時)で静寛院宮邸として売却し、豊島の邸宅を二千六百円(当時)で購入し転居したからとわかりました(WIKI南部栄信参照)これも両者が義兄弟であったからでしょう。 南部栄信と島津斉彬の養女、天璋院篤姫は親戚ですから、替玉、南部郁子は篤姫と東京で交流を持ったことは前月号で記した通りです。図八は、洋装姿の和宮・南部郁子の写真です。薨去した和宮が誰なのかわからない 阿弥陀寺に保存されている、皇女和宮の写真は、柳澤明子の写真です。しかし柳澤明子は、明治三五年(一九〇二)に亡くなったとされている。明治十年に亡くなった人が柳澤明子でないとすれば、第四の皇女和宮がいたのか、あるいは、塔ノ沢でのご療養そのものが架空の話だったのか、私は、皇女和宮が療養のため滞在したとすること自体があやしいと考えます。 その根拠は、阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、東京からの知らせがなかったこと。和宮は、天皇家と徳川家の象徴的存在、公武合体の象徴であり、降嫁の時に二十万の人々が集まったほどの重要な人物です。阿弥陀寺の住職の判断で、皇女の通夜、密葬ができるものなのでしょうか。密葬とは、死者の家族やごく近しい親類・友人のみで小規模に行われる葬儀のこと。まして場所は箱根です。阿弥陀寺の住職も和宮の顔は見たことはなかったでしょう。そもそも今でも写真一枚ない皇女なのです。 和宮には父である仁孝天皇はもちろん、母である勧行院橋本経子(慶応元年(一八六五)八月九日逝去)、夫である徳川家茂(慶応二年(一八六六)七月二十日薨去)も、兄である孝明天皇(慶応二年(一八六七)十二月二五日崩御)も含めて、和宮の真の顔を知るような、親族は誰もおらず、まして箱根塔ノ沢の遠隔地、誰も密葬に参列していないでしょう。替玉南部郁子の夫、華頂宮博経も、また南部栄信も前年に亡くなられているのです。