和宮の顔を知っていた島田左近の惨殺

 確実に和宮の顔を知っていた、皇女和宮に降嫁を脅迫的に迫った九条関白の家臣島田正辰左近(図九)は、文久二年(一八六二)七月、京・木屋町の愛人宅へ忍んで出向いているところを、薩摩藩の田中新兵衛ら配下三名に襲撃され、塀を乗り越えて逃げようとして尻を斬られ、落ちたところで首を討たれとされます。首は加茂川の河原に晒されたが、このときの暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる、都で続発した殺戮騒動とのこと。和宮嫁が文久二年(一八六二)二月ですから、和宮降嫁の後の口封事による暗殺なのだと考えています。皇女和宮は、大室寅之祐ではない睦仁親王の顔を知っていた……。 伊藤博文が、明治二年に暗殺された和宮の、最終的なケリをつけるために、箱根塔ノ沢で和宮に衝心の発作が起こり、この地で他界したことにしたのではないか。和宮降嫁を策謀した有力人物は、岩倉具視であり、孝明天皇暗殺は、岩倉具視と伊藤博文の計画と疑われています。 箱根塔ノ沢には徳川将軍家の菩提寺・芝増上寺の修行寺である阿弥陀寺があり、また和宮を知る人は誰もおらず、通夜と密葬を行ってしまえば、和宮の死顔を見せる必要はない。死顔をみても、有栖川宮熾仁親王以外、宮の顔を見分ける人はいない。冷蔵施設もない当時、九月二日から本葬の日まで十二日も経ってしまえば、顔も腐敗に近いはずです。 密葬、あるいは本葬の時の遺骸があったとすれば、誰か他人の遺骸か、あるいは、「調査団宛の手紙」を出した老婆の指摘どおり、明治二年に暗殺された和宮の遺骨を使用したのではないかと思います。西南戦争と有栖川宮熾仁親王 なぜ、皇女和宮の死去が明治十年九月二日とされたのか、改めて確認しました。熾仁親王は、明治十年二月十九日、鹿児島県逆徒征討総督を兼帯しました。 十月十日には、陸軍大将に任命され、元老院議長となり、十二月二日には、大勲位を叙勲し、菊花大綬章を受章しています。 その九月一日には、西郷軍は鹿児島をほぼ制圧し、情勢は大きく西郷隆盛軍に傾いていました。九月三日には官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐したとのことですが、そのような西南戦争の天王山という時期に、鹿児島県逆徒征討総督 有栖川宮熾仁親王が箱根の和宮の密葬に参加できるはずがありません。そして九月二四日、西郷隆盛の切腹で西南戦争は終わります。だからそれ以前の和宮の本葬にも有栖川宮熾仁親王は参列してない可能性があります。西南戦争の混乱の時期が和宮の、それはどの和宮かはわかりませんが、葬儀の日として選ばれたのでしょう。図十は、西南戦争逆徒出陣の図です。 歴史を紐解きましょう。殺された源義経の首は、頼朝の元に実検のため送られましたが、四十三日輸送にかかりました。顔を腐らして誰かわからなくするためといいます。源頼朝は腐敗しきった顔を見て、「これは義経でない」と見破ったのでしょう。平泉の藤原泰衡に大軍を送り滅ぼしました。 葬儀の延期により顔を腐敗させて死者を偽ることは過去から常套手段だったのでしょう。水野永世和上の記述、「すぐさま知らせが東京に飛び、協議に入った。その間、増上寺が徳川家の菩提寺であるので、その末寺の塔之沢阿弥陀寺の住職武藤信了が通夜、密葬をつとめたが、なかなか東京からの知らせがこない。東京では和宮の葬儀を神式葬か仏式葬かで激論が繰り広げられていたのである」という激論の理由は、和宮の姿をみさせないための手段だったのではないかと考えます。 神式ならば皇室、仏教ならば徳川家の領分なのでしょうが、薨去された後もすぐに葬式の形式を決定できないほど重要な人物ならば、副葬品はたくさんあるはずなのに、ガラス板ひとつ。これも、和宮の死が偽装であるひとつの証左となります。 さらに、和宮は伊藤博文の勧めによって、箱根塔ノ沢の「元湯」に療養のため滞在され、にわかに衝心の発作が起こり、他界したといえます。享年三二歳、若くして唐突な死は不自然です。田中光顕伯爵の告白  幕末維新の時に、「孝明天皇が弑逆され、睦仁親王が殺され、奇兵隊の天皇 大室寅之祐へすり替えられた」とする天皇すり替え説。これが流布する起りは、豊川市に住む三浦天皇こと三浦芳堅氏の著作である「徹底的に日本歴史の誤謬を糺す」にあります。鹿島昇氏の『裏切られた三人の天皇』新国民出版社から主旨を引用します。鹿島氏は、著書の中で「睦仁親王でさえ、中山慶子の流産した胎児とすり替えられたものかもしれない」と示唆しています。(引用)昭和四年の二月、私(三浦芳堅氏)は思い切って極秘伝の『三浦皇統譜系譜』及び記録を、埋蔵せる地下から掘り出していって、山口鋭之助先生に見ていただきました。先生はびっくりして、「私の一存では何ともお答えできないから、私の大先輩で宮内大臣をなさり、維新当時は勤王の志士であった田中光顕伯爵がまだご生存中であるから、この方にお尋ねてみようということで、私は連れていって頂きました〈図十一は若き日の田中光顕(顕助)〉。(田中伯爵は)これが正しい歴史であろう。けれども、今現在は明治維新が断行されて、宇宙のあらんかぎり、絶対に千古不滅の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実はこの欽定憲法によって、大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。あなたが今この事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様、闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて、極刑に処せられることは火を見るよりも明らかなことであるから、あなたのお父上がおっしゃった通り、早く埋蔵して何人にも一切語られぬがよろしい」と言われて、さっぱり私の疑問を説いていただくことはできませんでした。「伯爵は、これは日本の正しい歴史だとご鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表することが、欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表することが極刑に処せられるような欽定憲法であるならば、今このまま、直ちに私を司直に渡して極刑に処していただきたい」と申し上げました。 そのように申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔面蒼然となられ、しばらく無言のままであられましたが、やがて「私は六十年来かつて一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在、この事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵ただお一人が生存していられるのみで、みな故人になりました」と前置きされて「実は明治天皇〈図十二〉は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新という時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘、中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたという事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばせたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、すなわち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩においてこの御王孫をご守護申し上げてきた。これがすなわち、吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤王の運動である。 吉田松陰亡き後、この勤王の志士を統率したのが、明治維新の元老木戸孝允、すなわち桂小五郎である。元来、長州藩と薩摩藩とは犬猿の仲であったが、この桂小五郎と西郷南洲(隆盛)とを引きあわせて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である〈恒 桂小五郎を禁門の変の時、亀岡は千代川村拝田の自宅のわら小屋に匿い、但馬、出石へ逃がしたのが志士である八木清之助です。和宮の五輪の塔は清之助が建立。薩長連合の成立に関わったのが旭形亀太郎だと考えますが、旭形は全貌を知らされていなかった〉。 薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲〈隆盛 西南戦争の一方の雄〉に『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘してこれに賛同し、ついに薩摩を尊皇倒幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。これが大政奉還、明治維新の原動力となった。……御聖徳により、着々として明治維新は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想にしなかった大勝を博し、日本国民はこぞって欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に万世一系の天皇としてこの大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、しかも明治四十四年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時においても、明治天皇は自ら南朝が正統であることをご聖断あらせられ、従来の歴史を訂正されたのである。 このようにして、「世界の劣等国からついには五大強国のひとつとなり、さらに進んで今日においては日米英と世界三大強国の位置にまでなったという事は、後醍醐天皇の皇子の御王孫明治天皇の御聖徳の致すところである」と王政復古明治維新の真相を語り、なおこの外に岩倉具視卿の(孝明天皇と睦仁親王を暗殺した)活躍や、三条以下七卿落ちの〈大室天皇擁立運動の〉真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細にわたってお話くださいました」。 大室寅之祐明治天皇の出自については、近年これとは異なる見解が出されておりますが、全体として傾聴すべきと考えています。幕末明治維新の正確な理解なくして『霊界物語』はわかるものではない 父、出口和明が、「有栖川宮熾仁親王と出口王仁三郎 落胤問題を実証する」とのテーマで、和宮と熾仁親王の関係を『神の国』誌に掲載しています。(十五)(十六)では特に和宮と孝明天皇、幕府方の動きが克明に追跡されています。このことは、『霊界物語』四十一巻に記載の、皇女和宮を表すとみられるヤスダラ姫、孝明天皇と有栖川宮熾仁親王の投影であろうセーラン王、堀河紀子の投影を意識させるサマリー姫について考察するときに役立ちます。 なぜ熾仁親王や和宮、孝明天皇、維新の元勲のストーリーが、『霊界物語』を読み解くうえで、必須であるのか、このことの正確な理解なくして、『霊界物語』は絶対にわかるものではない、それは後の号でご説明します。