有栖川宮熾仁親王と皇女和宮(引用)

和宮親子内親王は、生まれながらに幸薄い姫君であった。弘化三年(一八四六)閏五月十日、仁孝天皇を父、新典侍橋本経子を母として、京都御所建春門前の橋本家に産声を上げた。しかし仁孝天皇はそれより四カ月前、即ちこの年の正月二六日に崩御していたから、まったく父を知らない。一五人もの皇子皇女は次々と夭折し、生き残った姉の敏宮も、気の狂うほどの病体と伝えられるから、末の和宮が頼りとしたのは、この年一五歳の異母兄孝明天皇ただ一人という淋しさである。 弘化三年が六〇年に一度めぐってくる丙午であったことも、何か悲劇的ではないか。丙午は宿曜雑暦にちなむ迷信のひとつである。十干十二支を五行に配すると、丙(火の兄)、丁(火の弟)、己、午が火性で、従って丙午は火勢が熾烈という。これにあたる年は大火が多く、この年出生したものは気性が激しくて、特に女は男を食い殺すという俗信のため、丙午の女との縁談は忌みきらわれた。 明治三九年(一九〇六)の女児出生届数が前後の年に比して格段に少ないのもその影響であるし、近くは昭和四一年(一九六六)の丙午で出産を手びかえた記憶も新しい。まして禁忌の盛んな朝廷のことであるから、この忌わしい年まわりの姫君の御誕生は決して平静に受け取られなかったであろう。 『実久卿記』(和宮外祖父)等には「寛永元年八月二日に至り、叡慮を以て和宮御歳替の事あり、即丙午を乙巳(丙午の前年)に改められ、其翌年御誕辰を(弘化二年)十二月十一日と定めらる」とある。 嘉永四年(一八五二)、孝明天皇は、勅使権大納言三条実万、前大納言坊城俊明をもって、皇妹和宮の有栖川宮熾仁親王への降嫁を内旨する。この時、熾仁かぞえ十七歳、和宮六歳。 安政五年(一八五八)頃から、幕府は皇女を御台所(将軍夫人)に迎えたい意向を抱きはじめていた。いかにも皇室をありがたがっているように見えるが、その実、井伊大老は、安政の大獄の鉄拳で威嚇し朝廷を屈服させたこの好機をのがさず、更に朝廷を統制する腹であった。外国条約勅許のいざこざがおこる以前の、政治から隔離した存在であった朝廷にまで引き戻す。幕府の常識ではそれが正常な在り方だったのだ。 安政五年時点で皇室から御台所を選ぶとなると、将軍家茂は一三歳、孝明天皇の姉敏宮淑子内親王(三〇歳)はとうに婚期を過ぎながら独身でいるほどの病弱であり、皇女富貴宮はこの六月に生まれたばかり、いくら政略結婚とはいえ言い出しかねる。年令からなら将軍と同い年の和宮が好適だが、すでに熾仁親王との婚約が成っている。 井伊大老は関白九条尚忠と協議を重ね、やむなく富貴宮を第一候補としたが、翌安政六年(一八五九)八月二日に薨去する。このため降嫁問題は和宮一人にしぼられるに至った。家茂は紀州藩時代の幼時に伏見宮貞教親王の妹則子女王(倫宮)と縁談を進めていたが、この八月皇女を迎える用意に破棄している。 一方、熾仁親王と和宮の婚儀は翌年冬に準備されており、『実麗卿記』(和宮の生母橋本経子の兄)によると、翌万延元年(一八六〇)二月三日、和宮は熾仁親王との婚儀準備のため、勅許を得て生家の橋本邸から桂御所へ移られている。桜田門外の変と飯田忠彦の憤死 万延元年に入ると、井伊大老の独裁専制と志士弾圧に反発する空気がいっそう険悪さを増してくる。三月三日上巳の節句の日、陽暦では三月二四日というのに、春には珍しい大雪であった。芝愛宕山に集まった水戸脱藩士ら一八人は、桜田門外で井伊直弼の登城を待つ。井伊の行列総勢六〇余人が桜田門外に来かかった時、暗殺団は雪を蹴って目指す駕龍に襲いかかった。大老となって二年と満たぬ間である。井伊直弼の急死とともに幕府権力、独裁的政治秩序は急速な崩壊をみせていく。 桜田門外の変で水戸浪士らに井伊大老が殺されるや、飯田忠彦は再び幕府の嫌疑を受け、伏見奉行所に捕われる。後に宿預りとなるが、その過酷な取調べに憤懣のあまり自らの命を断つ。享年六三。大老の死を、幕府は半年余も世間にひた隠している。和宮降嫁問題 幕府運営は老中久世広周と安藤信正に移り、井伊の死以後も降嫁問題は特に安藤によって推進されていた。幕府の土台が揺るぎ出すと、朝廷統制という最初の降嫁目的は、公武一体(公武合体)、つまりは朝廷の権威を借りて幕権を強化しようという望みに変わっていた。 尊皇攘夷運動のスローガンが反幕権力結集に利用されている時、たしかに「皇妹を将軍の御台所に迎えればこれこそ公武一和、尊王精神の具体化ではないか」と尊王論者どもの矛先をかわすメリットはある。 四月一二日、幕府は老中連署の書簡(四月一日付)を所司代酒井若狭守忠義を通して九条関白に届け、和宮降嫁を正式に申し入れた。 連名をもって貴意を得ます。されば公方さま(家茂将軍)お年頃になられましたので、ご縁組の内意をおおせ出されました。ご先規もあらせられることなので、この度は皇女の内とご縁組を整えたい御内存で、われわれ老中もそう願っており、早速評議いたしましたところ、お年頃も和宮がふさわしく至極結構に思いますが、先般有栖川宮へご縁組のご内意がありましたことゆえ、右をお沙汰止めということになれば都合よろしく、公方さまとのご縁組を整えられるようご勘考おとりはからい下さいませ。そうして下されば公武ましますご一和の筋を国内はもちろん外夷までもさし響きますので、第一国家のおためと存じますので、厚く関白(九条尚忠)殿へご内談をとげられ、はやくあい整いますようおはからい下さいませ。四月朔日 安藤対馬守 脇坂中務大輔 内藤紀伊守 久世大和守酒井若狭守様 国家のために、有栖川宮との縁談を一万的に破棄させ将軍との縁談をまとめてほしい、というまことに虫のよい申し出で、さらに追伸には「皇妹和宮を孝明天皇の養女にした方が都合がよろしい」と和宮の皇女としての資格まで要求している。もっともこれまでには十分根まわしがしてあり、大老井伊直弼の腹臣長野主膳義言、九条関白の家臣島田左近、公卿の中で第一の策士といわれる岩倉具視らがおこたりなく裏面工作を進めていた。幕府としても十分な成算があってのことであろう。 長野義言は国学者であったが、出生地も不明で、前半生は謎に包まれている。伊勢三河・尾張・美濃の各地を遊歴、近江に入り志賀谷村代官阿原民に寄寓、国学塾高尚舘を開き彦根藩の井伊直弼と親交を結ぶ一方、二条家など堂上方にその学を講じた。井伊が藩主になると藩校弘道館の指導者に登用され、また系譜方、異国船処置御用掛などの役目をかねた。 井伊の大老就任後、長野は通商条約勅許問題、安政の大獄事件をめぐり尊攘派勢力の反幕工作に対抗するために主として京都にあって活動、井伊側近としての実権をふるっていた。だから長野にとって井伊の不慮の死は大打撃で、それだけに井伊の遺志をなし遂げる決意も強かったであろう。 長野から所司代の家臣三浦七兵衛にあてた密書(上包には月一八日に逢すとある)には、和宮降嫁について大胆に腹中を明かしている。…このたび悪党ども狼藉に及び、市中は動揺して容易ならぬ御時節に至り、一昨年来公武の間をさまたげてきた手段にも及ぶところ、厚き叡慮をもって公武ますます御一和の旨おおせ出され、天下安堵の地になりましたが、またまた悪党ども、この度のごとく蜂起いたし色々虚説も流布いたすようになって参りましたので、早く天下の疑惑を晴らさねばなりません。 ついては皇女のうちにも御年長にあられる和宮とのご縁組を遊ばされれば、国内はもちろん諸夷(諸外国)までもいよいよ公武一和の儀を示すことになり、国体のためにもなりますので、なにとぞそのようにお運び下さいませ。 和宮は有楢川帥宮にご縁組をおおせ出されておられます由、有栖川宮はご薄禄(低収入)、和宮をお申しうけになってもお賄い何かとご迷惑でありましょうし、内実は和宮さま、丙午のお生れですから中務卿宮(父幟仁親王)は深く恐れていられるように聞いています(註・実は邪推に過ぎない)。そのため、和宮と有栖川宮との御縁談は成立すまいとの風聞もあるくらいで、将軍家にご降嫁願うことは双方に都合がよいことになりましょう。 そこでまず内々に関白殿下へ申し上げて御厚談の上、しかるべくおとりはからいなされますようにお願いします。このこと、老中さま方よりもおおせられるはずであり、主人からも直書をもって申しあげるつもりでありますが、この節不快につき(註・主人の井伊大老はすでに死んでいるが、表向きは病気としている)まず私よりあなたまで申し上げるよう命じられましたので、なにとぞ一日も早くご縁組が整いますようご心配下されたく、ひとえに頼りに思っておられます……。 幕府から矢の催促をうけながらためらっていた九条関白も、ようやく五月一日になって和宮降嫁の件を奏上した。これに対し四日、孝明天皇は書を九条関白に下して、やんわりと拒絶する。 今度関東より内願の一件、公武合体の件ももだしがたいが、和宮にはすでに有栖川宮と内約もあることだから、今さら違約もできぬではないか。先帝(仁孝天皇)の皇女であり、自分としても義理合があるから、その事情もくみとってほしい。それに和宮はまだ年幼い女子のこと、関東に蛮夷(外国人)がたくさん入ってきているというので、こわがっておられる。せっかく申しこんできたものでもあり、自分としてもよくよく考えてみたが、実に仕方のないことゆえ、この縁談は見合わすべきだと思う。 外国との条約調印のことについて幕府との意見の食い違いもあり、幕府では朝廷が何かもくろんでいるように考えてか、しばしば公武合体を申し立ててくるようだが、こちらとしては隔心など決してないのであるから心配することはいらない。ただ外国との条約の件については自分はあくまで不同意である。この主旨をよく体して、幕府へ申し渡すようにとりはかってもらいたい。 関白からこの勅使の内容を聞かされた所司代酒井忠義は、幕府へ伝えず、五月一一日、一存で書き綴った奉答書を逆に関白に取次がせ、いちいち反論して幕府の意向を強引に通そうとする。 おおせの趣きもっとも至極のことで早速にも関東へ申してやるべきですのに、私一人の考えを申し上げることはまことに恐れいりますが、和宮ご降嫁の件は軽率に決めて願い出たものではなく、閣老一同が公式の間はいうまでもなく、天下のおためを考えて十分に評議を尽くしたものであり、将軍のお考えもよくお聞きした上で深重のご注意をもって申しあげるように言ってきたもので、勅旨の趣きを関東へ申してやりましても、すぐさまご降嫁の儀を再び願い出ることは決まりきっております。いそいでおります時にそのやりとりで時日をついやすことも実にむだなことで、さしでがましいと思われましょうが、なにとぞ関白殿下にはいま一応とくとご賢察の上、主上にお取次ぎ願いたいのでございます。 有栖川宮(熾仁)(図十五)とのご内約についてのご心配であられますが、有栖川宮家ではご降嫁の件はしかと承知しておられます(註・事実ではない。手を廻して有栖川宮に辞退させる確信があって、あえて強弁したのであろう)。ただいまご破談になっても少しもご心配に及びませんし、かえって先方で安心される場合もございましょう。まだご結納もすまされず御内約に過ぎぬのですから、これによって御名儀を失わせられることなどありますものか。 また先帝の皇女であられるお義理合い、ごもっともではございますが、関東との縁組も先例のあることであり、遠隔の地へ御降嫁願うことはおそれいりますが、お仕え申すことに至ってはかえってお手厚にできることでございましょう。 和宮さまは御幼年であられ、関東は蛮夷来集の地であることを恐れていらっしゃるようですが、関東は諸大名が多く家来たちを召し連れて御警衛も行き届き、決してご心配なされるようなことはございません。この度のご縁組の儀は天下一体のための重要な事柄でありますので、右の事柄をよくおくみとりご納得下さいますよう願い上げます。 なお、また公式の間柄、少しも隔心ないとのおおせ承り、かねがね私はありがたく拝承しておりましたが、なにぶんにも一昨年来たびたび往復して交渉もありました故、天下一統が公武一和の儀をしっかりとわきまえているとは申せず、その上、この度の縁談をおことわりになれば、関東年寄までもおぼしめしの儀を深く心配いたすことでしょう。その上再三懇願つかまつり、遠路往反むなしく時日をついやすばかりで御押合御往復もたびたびになりましてはこれまでの御一和にもあい響き申すのではないかと心痛いたしております。関白殿下にはくれぐれもご賢察下さいまして、今一度主上の思し召しをお伺い下さいませ。 衣の下に鎧をちらつかせての強談である。孝明天皇は関白を通して再度不承知を言いやったが、閣老たちは引き退らぬ。和宮降嫁以外に公武一和の方策がないかのような打ちこみようだ。強引に実現してはみても、それがもたらすマイナス面の大きさを考えないのが不思議である。酒井所司代はさらに降嫁を請願する。一、有栖川宮に於かれましては、御内実、格別に御懇願なされた上、御内約になったようにも承ってはおりません。また御結納もすまされてはおらず、全くの御内談中のものと存じますから、御名儀にこだわられることもありますまい。またお義理合いもあられる先帝の皇女でありますから、関東へ御下向なされれば御保養の辺は幾重にも、お手厚くなりますよう私ども十分に丹誠いたしますので、先帝に対してはむしろ御追孝になることかと存じます。一、和宮は関東に蛮夷来集につき恐れておられますが、蛮舶(外国船)が集まりますのは貿易を願い出るためで、闘争を求めているのではありません。万一戦争になったとしても厳重な御警備もあり、諸大名へ命じなされて十分に防禦もできますので、決して御心配いりません。一、公武の御間の儀は将軍はもとより崇敬をつくされるおぼしめしですが、国中は申すまでもなく外夷から見ても公武一和の実が判然となるよう望まれていますので、この度の御縁組は亀筮(亀の甲を焼いて占うこと)の御吉兆だけでなく、天下の御治道第一のことですので、ひとえにお願いしている次第です。一、蛮夷の儀はいつまでも御不同心におぼしめされる儀、ごもっともと存じます。関東においても将軍はじめ政務にたずさわるもの一人として外夷との交易を好んでいるものはございません。 ただ今日の場合、ねんごろに貿易を願い出ているのに無法にこちらより征討するわけにもならず、余儀なく御猶予中になっておりますことは、一昨年末たびたび申し上げ御承知のことと存じます。ひっきょう御縁組の儀も将軍においては第一国内の人心を一致いたさせ、おいおい防禦の方も厳重にお備えになろうとの御趣意にありますので、深くお察し下され何とぞ縁組が整いますよう、伏してこい願い上げ奉ります。 六月一六日、宮中では和宮の「月見の儀」がもよおされる。孝明天皇も臨御。先月「儲君」(皇太子の称)となった祐宮(のちの明治天皇)や推后もともに陪覧する。 当時の風俗として男女かぞえ一六歳になると六月一六日をもって月見の儀を行なう。特に女子にとっては男子の元服にも比すべき大事な儀であり、女子の元服ともいう。和宮は丙午生まれの一五歳であるが、公式には前年の乙巳誕生と改められているので、一年早められたのであろう。月見の儀の作法は、月に百味を供し、女子はその中の饅頭一個をとって萩箸で穴をうがち、その穴で月をのぞき見る。この元服の儀に和宮はどんな思いで列したであろう。 和宮降嫁をめぐって朝幕間の公式の折衝が重ねられる一方、幕府の裏面工作もまた激しかった。五月二九日付老中連署の所司代あて書状。…徳大寺、中山両公卿はそのまま職においてはどれほど公武一和のさまたげになるか知れず、第一朝廷のためにもはなはだよろしくないと存じ、昨年十二月関白殿へ内々に申しあげていたところ、その後、御内沙汰の次第もある旨申し越されてきたので御猶予なされていたが、近来中山はおいおいおだやかになってきて御一和の筋にも努力しているようだが、徳大寺は今もって同様であり、この上ともお役をつとめさせていてはよろしくない。早々に御内沙汰をもってお役ごめんになるよう関白殿へ申し上げてもらいたい。 和宮降嫁に反対し、幕府ににらまれた議奏徳大寺公純は老中の圧力に屈し、辞職させられる。六月一八日徳大寺より足痛を理由に辞職願を出させている。こういう幕府側の強硬な手段を見せつけられると、降嫁に反対の公卿たちも動揺する。 一方、岩倉具視の妹右衛門典侍(堀川紀子)や千種有文の妹、右衛門少将(今城重子)が天皇の寵妃であるのをよいことに、これを通して天皇に働きかけた。降嫁に反対の参議橋本実麗(和宮の伯父)や観行院橋本経子(和宮の生母)には、故徳川家慶将軍の上﨟橋本勝子(両人の伯母)を動かし、忠告の手紙を出させる。朝儀は混乱した。