岩倉具視の見解

 孝明天皇は侍従岩倉具視を召して下問されると、岩倉はここぞと答える。「幕府の覇業はすでに地に落ちたとはいえ、ここで一挙に皇権を回復しようとすれば、かえって天下の大乱を招きましょう。順をおってこれを収めるに越したことはありません。あたかもよし、幕府は和宮の降嫁を奏請してきていますので、その願いを達してやり公武一和を天下に示し、幕府をして次第に蛮夷との条約を撤廃させ、国政の大事はことごとく朝廷の裁決を経て執行するようにしむければ、政権は自ら朝廷のものになりましょう。今や和宮の一身は実に九鼎よりも重く、内願の聴否はまことに皇威の消息に関します。ですから幕府が条約撤廃の実行を誓うならば、和宮をさとして承諾させ、降嫁を許させ給うべきです」 同じ降嫁の賛成派でも、岩倉の意見は個性的であり、卓見であった。降嫁によって朝廷を統制しようとした井伊大老の意図を両刃の剣として、逆に関東に委任した政権を朝廷に収めようというのである。叡慮は動いた。六月二〇日の勅書――蛮夷の儀はどこまでも拒絶されるよう、すでに三社へも幣使をさしむけ祈願させているほどのこと、朕の代より蛮夷和親が始まったとあれば、これまでにも申した通り、神宮を始め先帝に対しても申しわけなく、これのみ日夜心を痛めている。 別して先帝の皇女を夷人徘徊の土地へ縁組させるなど、実にもっておそれている。困難ながら、蛮夷拒絶し、せめては嘉永初年頃の通りに関東にも処置できるようなら、もはやとやかくなく、和宮にもせいぜい申しさとし、縁組の談合もできようが、この頃の形勢のままでは前文の通り心配である……。老中連署の答書 「攘夷ができれば和宮の降嫁を許そう」との天皇の条件付き譲歩に対して、七月四日付、老中連署の答書では「降嫁によって公武一体の実を示し、人心一致して外夷防禦に集中しよう」と約束し、さらには攘夷の期限まで言い切ってしまう。―夷人のいる地へ御縁組の事で衆人の心が動揺するであろうとのお言葉ですが、江戸は、夷人の在留する横浜の地とは八里もへだたっており、その間に舟で渡らねばならぬ六郷川という大河があります。この六郷川を限って江戸の方へ勝手に遊歩できぬように条約で取り決めてありますので、よんどころなく役人どもが応接にまかり超すことは別として、その外の者が勝手に江戸市中を徘徊するなど、もとよりございません。 御勅旨では、今すぐにも蛮夷を打ち払うようにとも伺えますが、五蛮(アメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランス)貿易の一条は一時の願い立てにて許したわけではなく、かねがね言上しておりました通り、相手の願いをだんだん縮小して今日の条約を見るに至ったのですから、ただいま無法に打ち払うようなことをしては、たとえ夷狄でありましょうとも、一昨年御猶予おおせ出され、条約も結んだものを、手の裏を返すような処置に出ては名節を失し、実に神国の御信義も成立ちがたく、かえって御国威を失うものとなりましょう。 その上、国内が十分に一致しないうちに外患が発生しては、その挙に乗じ内乱もおこるべく、外夷もまたその挙に乗ずるでしょう。内外の騒乱が一時に起っては平定する見通しもありません。今は干戈(武器)をとるべき時節ではないと一昨年も申し上げて御納得いただき、御猶予下されたわけです。その後とても関東ではさまざまな配慮を重ね、油断はしておりません。ただいま軍艦鉄砲製造のその最中であり、なまけているわけではありません。衆議をつくし、計画をめぐらしていますので、当節より七、八箇年乃至十箇年もたちます内には、ぜひぜひ応接をもって引き戻すか、または干戈をふるって征討するか、その節の処置方法のはかりごともありましょうが、前もってこのようにすると決めておくわけにはいきません。 謀略は密をもって良しといたしますこととて、臨機応変の御処置がなくては始終の勝利をおさめられませぬ。いずれその節はきっと叡慮を立てさせられ、御安心のいく御処置にあいなるべく、右およその攘夷の年限は申し上げましたが、万一向こうより兵端を開くか、または条約に違反するか、御国制を犯すようなことがあれば御処置になられますよう、一同、せいぜい勘考しております。右のような運びになりますにも、まず国内の一致が第一の手始めでありますから、くれぐれも御厚察なし下さいましてすみやかに御許容になり、御縁組が整いますようひとえに願いあげます。…以下略。「成破の盟」 維新の立役者はいうまでもなく薩摩・長州の両藩だが、藩論が統一して討幕に立ち上がるまでのそれぞれの内部には、複雑な葛藤があった。 万延元年(一八六〇)年七月、攘夷と夷狄に通謀する姦吏の排除を目的として、長州藩尊攘志士と水戸藩尊攘志士との間に「成破の盟」が結ばれ、水戸藩が破壊活動、長州藩が事態収拾にあたることを誓い合った。 攘夷についてはぬらりくらりと逃げていた幕府である。「七、八箇年乃至十箇年」と具体的に期限を切るなど、むろん成算あってのことではない。十年もあれば何とか情勢も変ろうとの、いわば外交辞令にすぎなかったであろうこの言葉が、孝明天皇のお心を開かせていた。 攘夷は天皇の泣き所である。そのためならば、和宮降嫁も万やむをえない。八月六日天皇は議奏久我建通を九条関白の屋敷へつかわし、橋本実麗、観行院等に和宮降嫁のことを斡旋するよう説く。 翌七日、関白は橋本実麗を招き天皇のお気持ちを伝えた。和宮の心を知る橋本はいったんはおことわりするものの、勅諚といわれては仕方ない。和宮に伝えねばならなかった。「勅諚之趣言上之処御迷惑御困之御様子誠恐入候事筆頭難尽」と実麗はその日記に書き残している。 だがどのように勧められても和宮は承知せず、八日には自ら天皇に書簡を出して固辞し、生母観行院もまた和宮の意志の変らぬことをのべるのである。 むりもなかった。かぞえ六歳といえば、ものごころもつかぬうちより、他でもない兄である天皇自身の口から「有栖川家へ嫁せよ」と運を定められてきたのだ。熾仁親王の妻たるべくして和宮は成人した。一〇年の時の流れが二人の心を固く結びつけていよう。今になって心変りせよとはあんまりである。天皇の言葉とも思えぬではないか――。天皇の九条関白への宸翰 天皇もほとほと困惑した。三日宸翰〈天皇の直筆の文書〉を九条関白に下し、幕府に伝えるように命じる。……和宮にせいぜい説得して見たが、どうしても承知しない。和宮の気持ちを察するとまことに哀れであるし、和宮は先帝の皇女、自分とは異腹の義理合いもあり、火急理不尽にも押しつけることはできない。この上に無理にと申したならば不慮の儀もできはせぬかと心配している。なるべくゆるゆると説得するつもりであるから、急に内定にまではこぎつけられまい。関東には色々注文をつけたことでもあるし、ただことわるとは申し出にくい。実に一和の上の一和と喜んでいた甲斐もなく、関東へは信義を失うことになろう。 それでもひたむきに急ぐということであれば、壽万宮を代りに降嫁させてはどうであろう。幼年なので好まないだろうか。一人の女子だから少々は哀憐も加わるが、公武一和の儀には替えがたい。天下のためであるから、よく相談した上で早急に内定してほしい。それもだめで和宮も承知しないならばどうしようもない。関東の信義を失うことになれば、譲位もまたやむを得ない。よろしく幕府をして考慮いたさせよ……。 壽万宮とは、前年三月に生れたばかりの皇女であるから、いかに政略結婚とはいえ幕府も承服できない。天皇は長橋局を使いに出し、重ねて観行院を説得させるが、彼女もまたあくまでおことわり申し上げる。和宮母、勧行院の見解 このあいだ長橋局さまお使いにお参りの節、私にも拝見いたし候、老中の書取の内に、七八か年の間には異人ども退散に成候の御工風のよし、しかしながら宮さま御下向の上ならでは、御所関東の御間柄御和親のこと世上へしれがたく候故、先手始は御縁組のことかんじんの由相見え申し候、さてまたこの間、長橋さまお咄し、七八か年もたち異人の事も相すみ候上ならば御承知も遊ばし候やとのこと故、さ候わば只今御治定にて御結納もすましおかれ候はば世上へ御和親のことも相知れ候こと故、まことにおいやさまのことには候えども、先年より異国のことは御心配の御事、さ候はば御上にも御安心の御事故またまた御すすめ申上ようも御座候えども、それとてもただ今だけの御約束にて、七八か年も立ち候ても異人へ関東より応対引もどしもとくと済み申さぬ内に、御結納も相済み候こと、かつは御年もだんだんめされ候などと申し、御下向の事、関東よりしいて申し参り候ようなることも候わねば、御すすめ申し上げかね候。 その辺しかといたし候、書物にても関東より参り候ことにも候わば、兄私ともどもせいぜい御すすめ申し上げ試み候わんながら、右の御事御むつかしき事にも候わば、御すすめ申し上げ候ことは幾重にもおことわり申し上げ候。全体関東より申し立て候御事は引申さず、候よしながら、この御事はよほどよほど御無理なる御事ゆえ、幾重にも御ことわりのこと御勘考遊ばし進められ候わねば、実々なげかわしく恐れ入り恐れ入り存じ参らせ候。陰謀は渦巻く 九条関白の家来島田左近の暗躍 陰謀は渦巻く。九条関白の家来島田左近と諸大夫宇郷玄番頭は、人を使って和宮の乳人田中絵島(藤御乳という)をふるえ上がらせた。「橋本兄妹(実麗と観行院)があくまで不同意を唱えるなら、関白、議奏が協議して、橋本実麗を落飾させ、観行院は蟄居をおおせつけられよう。お前も橋本兄妹側につくならば追放されるだろう」というのである。 乳人からこの話を聞いた実麗は、周囲の状況からもうどうにもならないことと観念し、桂御所を訪ねて和宮に縁組を承知されることを説く。一五歳の少女は、追いつめられてまったく孤立無援となった。一時は尼門跡として林丘寺に入ることまで覚悟した和宮である。その小さくても固い固い殻をついに打破ったのは、先の八月一三日付、九条関白あての宸翰であった。天皇の命を受けた典侍観修寺徳子、掌侍高野房子が折しも和宮説得の為に参上し、この場で宸翰の写しを見せたのである。その文中の譲位の二文字に目を止め、ふるえる指でさし示しながら、和宮は実麗に告げる。「これを拝読すれば、私は寝食を安ずることができません。すぐに御聖慮に従いたいと存じます。どうぞ私の気持ちをお汲みとり下さいましてよろしいようにお取り計らい下さるよう――」降嫁の五つの条件 八月一六日、ようやく降嫁の議に従った和宮は、五つの条件をあげている。明後年先帝の一七回忌の御廟参をすませてから下向し、その後も毎年回忌ごとに上洛する事、江戸下向の後も和宮はじめお目通りに出るもの万事御所風にする事、江戸になじむまで女中の一人を拝借し、仲間の内三人つけられたいこと、和宮が御用の節は橋本宰相中将下向のこと、また御用の時は上藤、お年寄のうちからお使いとして上京させること。 ただ一つ、幕府が難色を示したのは和宮東下の時期を明後年とすることである。不穏な国内情勢を考えると、一刻も早く降嫁の切り札を出したい。下向の時期については、まだまだもめるのである。 八月二二日、関白九条尚忠はみずから有栖川宮家におもむき、幟仁、熾仁父子と対座した。すでに家臣島田左近から、有栖川宮家の諸大夫藤木哉基に対して、和宮との婚約解除の話があればすぐに諒承してほしいと申し入れてある。そうしてもらえば幕府は摂家または三家の女を将軍の養女にして熾仁親王と縁組されるよう周旋し、有栖川宮家の歳入の増加も配慮したいと、幕府側の意向も通じてある。しかし、対座する関白尚忠の胸底にはいやでも一〇数年前のにがい記憶がよみがえっていたであろう。 孝明天皇の准后夙子(幼名基君、諡・英照皇太后)は、尚忠の第六女である。幼い時から夙子は、有栖川宮幟仁親王と許婚の中であった。 弘化二年(一八四五)春、宮中に摂家の女数人が召されて茶菓や料理をたまわったことがある。当時一五歳の皇太子統仁親王(孝明天皇)に配する后を求めるためだが、その中の一人夙子(一三歳)に白羽の矢が立ち、早くも同年九月一四日御息所と内定した。 翌弘化三年二月六日、仁孝天皇が崩御するや、同月一三日に孝明天皇は践祚、嘉永元年(一八四八)一二月一五日、夙子は一六歳で入内する。大雪の日であった。牛車で九条邸を出る夙子は十二単衣を召し、その傍らに尚忠の姪広子(三〇歳)が六衣を着てつきそった。廣子(岸君)は尚忠の実兄二条斉信の第五女であり、尚忠は九条家の養子となった人。 この廣子は、数カ月前の五月二日、有栖川宮幟仁親王と結婚している。幟仁三七歳、廣子三〇歳でどちらも晩婚である。有栖川宮家と二条家が結ばれたことによって、九条尚忠は血はつながらぬながら、幟仁とは叔父、熾仁とは大叔父の関係になる。 いかに勅令とはいえ、尚忠は十数年前に自分の娘と幟仁との婚約を破談にし、今は幟仁の子熾仁の婚約を破談にするための交渉の矢面に立たされている。孝明天皇にしても、その苦しい立場は同じであろう。かつては幟仁の婚約者を奪い、今は熾仁と妹和宮の婚約破棄を命ぜねばならぬ。 翌八月二三日、有栖川宮家より伝奏広橋光成に書付一通が提出される。 和宮様おこし入れなさるについて、御殿を御新造、御絵図等もそえて関東へお願いの筋おおせ立てられてはおりますが、何分にも有栖川宮邸は御地面も狭く、そのほか御不都合のおんことどもも多いので御心配になっておりましたところ、昨二十二日関白殿御内沙汰のお旨もご承知なされ、御恐懼のおんことでございます。ついては御縁辺の儀はまことに容易ならぬことにておそれいりなされておりますので、何とぞ御延引の御沙汰になりますようおおせられたく、この段よろしく御沙汰なされますよう頼み入ります。八月二十三日         有栖川宮御内藤木木工頭 二六日、いよいよ願意聴きずみとなる。こうして縁組は表面上延引となったが、その実は解約であった。この婚約破棄について、熾仁親王の和宮に対する気持ちをと汲み取る資料は乏しい。熾仁親王は平生より精細に日記をつけ、たとえ夜半を過ぎるとも必ず筆をとっていた。慶応四年二月九日東征御進発から明治二八年一月八日すなわち薨去の七日前まで一日も欠かさぬ日記が現存する。むろん、東征以前の多恨なる青春期、国事奔走の丹念な記録がなかったはずがない。しかしそれらのすべては他見をはばかるためか。親王自らの手で火中に投じたという。熾仁親王の思いも、その日記とともに実ることなく灰と散ったのであろう。三六歳までかたくなに独身を続けた親王の姿に、悲しい意地を見るのは私だけであろうか(引用終了)。 出口和明「有栖川宮熾仁親王と出口王仁三郎 有栖川宮落胤問題を実証する(十五、十六)」『神の国』(二〇〇二年八・九月号)より一部引用(敬称略)次号へ続く