失われた和宮の左手首を巡る謎

 さて、思わぬところで和宮の墓に遭遇した私たちであったが、この段階では、なぜそこに分骨が埋葬されているのかはまったくの謎であった。その謎の追求に後髪を引かれながらも、翌年からはいよいよ『大地の母』の刊行が始まり、連日の取材、執筆、校正と文字通り寝食の暇もない状態へと追い込まれていった。ところが、『大地の母』一二巻の出版もようやく終わった昭和四六年、亀岡在住中に取材を手伝ってくれた奄美の大本信徒・祷正巳氏からあるラジオ放送の録音テープが送られてきた。 「人生読本」という番組で、出演者は元東京国立博物館資料室長の鎌原正巳氏。番組では東京港区芝の増上寺の徳川廟改葬工事に関連して、和宮の遺骸は胸に一枚のガラス写真を抱いていたが、ある不手際からその写真の映像は永久に失われたこと、和宮の遺骸には左の手首がなかったことなど奇怪な事実が語られていた。 和宮が抱いていた写真? それは誰だったのか?左の手首の真相は?私たちはさっそく、写真を見た当事者である山辺知行氏を訪ねた。増上寺の徳川家霊廟には、二代将軍・秀忠をはじめ、徳川家ゆかりの人々の墓が立ち並ぶ。昭和三三年には、戦禍で荒廃したままになっていたこの墓所の改築工事が行われることになり、東京大学理学部長の小谷政夫氏を代表とする総合調査が行われた。この一連の調査に国立博物館染色室長であった山辺氏は、副葬品調査の立場から参加していた。 二代秀忠、六代家宣、十二代家慶に続いて、同年十二月二十日、静寛院宮親子内親王、つまり皇女和宮の改葬および調査がはじまり、翌三四年二月五日、徳川家十七代当主の家正氏が立ち会って、はじめて柩の蓋が開けられた 和宮は座棺ばかりの墓地のなかで唯一、寝棺で葬られていた(図六)。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである。 北に枕してわずかに膝を屈し、両肘を前に伸ばすようにして静かに横たわっている華奢な遺骨、そして切り揃えられた黒髪……。「まるで遊び疲れた子供がうたた寝しているような」と、立ち会った山辺氏は、印象を私たちに語ってくれた。見るべき副葬品こそなかったが、このとき山辺氏は重大な遺品をひとつ発見し、その後、思わぬ不手際からこれを失う羽目になった。和宮の両腕の間にちょうど今が今まで抱きしめていたかのような形で、小さなガラス板が落ちていたのだ。山辺氏は懐中鏡かなにかの裂地の部分が腐朽したものだろうと思い、採取して持ち帰った。哀れ消え失せた写真の人物はだれか その後、山辺氏は、博物館の仕事場で採取物の整理をしていた。和宮の抱いていたガラス板をふと電灯の光に透かしてみると、なにかが写っている。それはおぼろげながら長袴の直垂に立烏帽子姿のまだ若い男子の立像ではないか。これはだれだろう?和宮の夫、家茂将軍の写真だろうか?いやそれとも……?  ひとりで見つめていると、暗い廊下をこつこつと足音が近づいてくる。守衛のHさんだった。呼び止めて、墓から持ち帰ったばかりのガラス板を見せた。彼もガラス板に写った像を認めた。自分ひとりの想像や錯覚ではなかった。Hさんとふたりで見たのだ。これは昔の湿板写真に間違いない。明日になったら明るい光の下でよく調べよう。そう思いつつ、山辺氏は明日を楽しみに、その写真板を仕事場の台の上に立てかけておいて、家へ帰った。直垂長袴は武家の柳営(幕府ここでは江戸城)出仕の服であるから、はじめは家茂だと思った。しかし、公家も内々に用いていたはずである…。家へ帰っても、そのおぼろげな像が頭に焼き付いて離れなかった。しかもだんだん家茂将軍ではなく、和宮の「許嫁」だった有栖川宮熾仁親王なのではないか、と思われてくる。 翌朝、館に出るなり、さっそくその板を取り上げてみた。ところがなんと、ただの素透しのガラスになっているではないか。うっかり机上に立てておいたのが運のつきだった。あわてて隣の文化財研究所に持ち込んだが、「もうダメですよ。土のなかに埋まっていてこそ、百年でも二百年でも残るけど、陽の光に当てちゃったら、いくらなんでも復元できませんよ」と、つっ放されるばかりであった。 和宮が骨となっても抱きつづけた幻の人はだれだったのか。今となっては永遠の謎であるが、生きているうちには許されなかった恋しい若宮・熾仁親王の幻影を胸にかき抱き、だれにも邪魔されることのない墓地のなかで安らかに眠っていたのだと私は思いたい。心きいた子女のだれかが、あまりにも寂しい宮の遺体にこっそりとしのばせてくれたのであろうか。が、それにしてもどこまで憎い運命のいたずらだろう。たったひとつの墓のなかの宝物まで和宮から取り上げ、光にさらして無情にも消してしまうとは……。   しかし、和宮の遺骸に関しては、この消えた写真を上回る奇怪な謎があった。骨絡の保存状態は良好であるのに、なぜか、左手首の関節から下が発見できなかったのである。これはただ単純に、見つからなかったではすまされない問題である。行き倒れならともかく、庶民であっても、親の死骸は大切に葬るものである。ましてや皇女であり将軍の正室であった女性の遺骸が、粗末に扱われたはずはない。山辺氏たちは不思議でならず、和宮の数少ない写真をあさってみたが、左手はどれも袖下に隠されている。あるいは先天的になかったのでは……と疑いかけたところ、洋装の和宮の写真(図八)が見つかり、それにはちゃんと左手指が写っていた。ではなぜ遺骸には左手首がないのか?謎の投書が語る和宮惨殺の物語 その頃、和宮の侍女であったという女性から、朝日新聞と調査団に奇怪な投書が舞い込んだ。明治初年の頃、和宮が岩倉具視と投書者の祖母に当たる宮の祐筆〈公文書や記録の作成を行う人〉に若干の供回りを連れて江戸から京都へ向かう途中、箱根山中で賊に遭い、防戦中に自害されたという内容であった。差出人が匿名であったこともあり、この投書は一笑に付されたようだ。しかし、正式な発掘調査報告書『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会)の本文中に「(昭和三十四年)三月○日、静寛院宮の臨終について朝日新聞社、および調査担当官に投書が来る」の一行が記録されているとこからすると、そこにはやはりなにかひっかかるものがあったのではなかろうか。 原文は調査団のひとりである鈴木尚氏の著書、『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』の後書きにも掲載されているので、七十四ページに転載しておく。 鈴木氏は「達筆で認められたこの手紙は、教養と自信であふれていた」と記し、さらに「和宮の遺骨には、刃の跡その他の病変部は認められなかった。ただ、不思議にも左手から先の手骨は遂に発見されなかった(図七)「可能性としては、晩年の和宮に、彼女の手のなくなるような何かが起こったか、あるいは秘されているが、和宮か何かの事件に巻こまれたか、ということになろうか。私は、前述の匿名夫人の説にも、時間的に不自然な点があるのですぐに肯定できるものではないが、ことによると、墓誌銘に伝えられるような脚気がもとで薨去されたのではなく、何か別の事件、たとえば投書の内容に似た事件にでも、巻き込まれたことがあっての御最期であったかもしれない。今となっては判断のしようもないが、何とも不思議な話ではある」と述べている。 なお、手紙に「お手許品も何も入れず」とあるのも、消えた湿板写真以外に副葬品がなかった事実と不思議に一致している。ちなみにほかの将軍夫人たちは、華やかな副葬品と共に葬られているのだ。公式記録によると、和宮は明治二年一月一八日に東京(江戸)から京都に戻り、明治七年七月に再び京都から東京に移り、明治十年に脚気療養のため箱根塔之沢で湯治中に死去したことになっている。この点で匿名婦人の投書は年代が少し合わないが、和宮の自筆の日記『静寛院宮御日記』が明治五年で終わっているのは少し気になるとこである。 鈴木尚氏のいうように、今となっては事実はわからない。しかし、もしも亀岡の八木家の塔に眠っている「分骨」が和官の左手首だったとすれば、すべての辻棲が合うことも確かなのである。また、匿名婦人の投書がなんらかの事実を伝えているとしても、なぜ明治政府はその事実を隠蔽する必要があったのか、という問題は残る。たしかに、皇女が盗賊に襲われて死亡したというだけでもスキャンダルであり、治安責任者のみならず政府の責任が厳しく問われることになる。しかし、はたしてそれだけなのか? とくに匿名婦人の投書で、岩倉具視の名前があがっていることが気になる。岩倉は和宮の降嫁を強引に進めた冷血な策謀家であり、しかも後で述べるように孝明天皇密殺謀議の首魁と目される人物なのである。そう、この話の背後には、隠されたもっと深い闇があるのではなかろうか。有栖川宮の死因は割腹自殺であった? 私たちが手探りながら、そう考えたのには理由がある。実は、皇女和宮だけではなく、有栖川熾仁親王の死についても、ある見逃せない情報を得ていたのだ。「熾仁親王は実は品川御殿(図九)で割腹自殺された。血の飛び散った屏風が残されているはずです。その御殿は解体されて、山城八幡の円福寺に移された。一院は大徳寺の竜光院にある。当時の住職、上月鉄舟がすべてを知っています。 これは昭和四四年九月十日、突然訪れた京都の小原某氏から聞いた話である。ごく親しい阿刀弘文氏公に聞かれて『大地の母』執筆中の和明に知らせてくださったのだ。阿刀家は、大嘗祭の執綱を務める家柄とか。弘法大師の兄弟である阿刀大足の直系で有栖川宮とも縁続き、皇室関係の文書も担当している由である。それでも当時は私たちの知識が至らず、消化するだけの時間もなかった。締め切りが迫ってくる。手がかりを求めて『有栖川宮熾仁親王行実』や『有栖川宮熾仁親王日記』を探っても、かくかくたる事績ばかりで自殺にいたる影もない。 公式には、熾仁親王は日清戦争の勝利を目前とした広島大本営にあり、参謀総長の激務のなかで病を得、舞子別荘に退き療養のところ、マラリアチフスと判明、明治二十八年一月一五日に崩御したことになっている。六一歳である……(出口禮子)恒 なお、少し気になる点があります。明治二十七年、日清戦争が勃発し、九月十七日、大本営を広島に進められるにあたり、明治天皇の生母中山一位の局は大阪に下られ、旭形亀太郎家に御一泊となり、玉鉾大神に御参拝になった。このとき、有栖川宮、小松、北白川、伏見、久邇、賀陽の各宮家からは親電を寄せられたと言います。九月十五日に明治天皇が広島に入ることで、平壌攻略戦で日本軍が勝利。そして明治二十七年の時の、参謀総長として広島大本営に入ったのは、有栖川宮熾仁親王。明治二十七~八年の戦役の間、旭形は広島に移り住んで大本営にご用を始める。したがって、旭形亀太郎は、有栖川宮熾仁親王を追うように広島に入っています。 大本営とは,明治二六(一八九三)年の勅令(天皇の命令)で制定された戦時下の天皇直属の最高統帥(軍隊を率いること)機関であり、そのおかれているところが首都ともいえるかもしれません。 西南戦争の起こった明治十年の段階で博愛社(現在の日本赤十字社)大阪支部幹事とまでなった実業界の大立者が旭形亀太郎、その博愛社の活動を一八七七年に英断をもって許可したのが有栖川宮熾仁親王。孝明天皇暗殺の日に鰉を届けようとした旭形亀太郎と、孝明天皇の妹、和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁は赤十字社の世界では、両者は同じ「赤十字有功章」を受賞していました。 それにしても、中山一位の局は、その真偽はともかく明治天皇の母とされている人物、その人が旭形家に泊まるとは、明治天皇と旭形亀太郎の関係もなみなみならぬものがあることが想起されます。