孝明天皇にとって旭形亀太郎は、『霊界物語』での白狐旭と白狐高倉・月日明神であるかのように見えてきます。しかし旭形は、その記録の中でも、あえて和宮の死去は明治二年か十年か(恒)なぜ、今皇女和宮(図一・図二)なのか? 疑問に思われる方もいらっしゃると思います。皇女和宮は出口王仁三郎聖師の父、有栖川宮熾仁親王の許嫁として、公武合体の犠牲になられ、江戸城無血開城にも貢献された方です。私は先月の十一月号の『神の国』誌の記事で、和宮が明治二年に箱根塔ノ沢で暗殺され、骨は東京に持ち帰られ、左手首は、八木清之助が持ち帰って亀岡市の郷里に埋めて五輪の塔(図三)の形で祀られたことを仮説として呈示しました。出口禮子は、明治十年に和宮が箱根で死亡したという公式事実から、和宮暗殺は明治十年であろうしていますが、和宮が京に帰ったのは、明治二年二月三日とされていますから、「調査団宛の手紙」を書いた老婆の指摘する明治初年の年代、和宮の暗殺はこの二月三日の前のことではないでしょうか。 「調査団宛の手紙」の主旨は、明治初年に「岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(もちん御駕籠)おかくまいいたし、祖母も薙刀を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた」ということです。それならば、明治二年二月二四日に明治天皇に会ったという和宮親子内親王とは、その面会の事実そのものが虚偽か、あるいは、殺されたであろう和宮の「替玉」であったのではないでしょうか。 大室寅之祐明治天皇は、江戸開城から半年を経た明治元年十月一三日、初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められました(東京遷都)。和宮が十一月一日に明治天皇と面会したという記録がありますが、天皇は御簾の外から顔を出して和宮と会見したのでしょうか。もしそうなら、和宮は明治天皇が偽物であることを見抜いていたはず。 ただ、兄孝明天皇が暗殺され、夫、徳川家茂も暗殺説が飛び交い、孝明天皇の子とされる睦仁親王も暗殺されたと悟ったならば、自身の命を考えるならば、和宮は黙るしかなかったはず。そして、辻ミチ子氏の『和宮』(ミネルヴァ書房)によれば、上京に当たり和宮には千金(千両、または多額の金額)が渡され、藤子はじめ侍女たちにもお手当が出ます。勝海舟は日記に「万事朝廷にて御賄いなし下され、かつ天璋院様へ三千両お送り下され、至厚のご趣意、岩倉殿深情に出ず」と記しています。 ここに登場するのは、「調査団宛の手紙」の老婆の指摘と同じ、岩倉具視です。この千両とか三千両とは、岩倉具視や伊藤博文が実行した孝明天皇暗殺と大室寅之佑すりかえに伴う「口止め料」ではないでしょうか。有栖川宮熾仁親王、維新後京都滞在の年譜 ここで、出口禮子「落胤問題を実証する(二二)」『神の国』誌二〇〇三年三月号から引用します。(禮子)私の関心は、世祢(図四)の推定受胎期よりほぼ一年前、「調馬之事」のしきりに現われる明治二年代へと移っていく。当時の熾仁親王の行実を、年譜的に記してみよう。九月八日 一世一代の制を立て、明治と改元。一〇月一三日 明治天皇、東京に御著輦。親王は午前四時出門。錦旗兵杖を具して品川に奉迎される。皇居と定まった西丸に供奉し、午後三時帰邸。一〇月一九日 天皇お手習い師範仰せつけられ、お手本を調進すべき旨の沙汰がある。一〇月二二日 初めてお手習い師範として参内、以後しばしばこのことがある。一〇月二三日 上表し、東北平定の状を述べ、大総督辞任を奏請する。一一月二日 錦旗節刀を奉還し、賜暇を奏請する。一一月五日 京都に凱旋のため、因州藩邸を発する。一一月二五日 京都着、直ちに参朝、凱旋を報じ帰邸。東征進発以来、九ケ月ぶりの帰邸である。一二月三日 参内、大宮、桂両御所に伺候。一二月二二日 天皇京都著輦。一二月二五日 天皇は後月検束山陵に親謁、親王は供奉される。一二月二八日 一条美子(のちの昭憲皇太后)立后宣下。二月一六日 すでに朝議は東京遷都に決していたが、天皇の再度東幸について、お留守取締りを命じられる。二月二一日 『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれる。三月三日 来る四月十日までに寒月下向のことを沙汰される。三月六日 参内し、東下を辞退する。三月七日 天皇東幸を奏送する。六月二日 征東の功を質し、世銀千二百石下賜の沙汰がある。この日初めて武田信晁令義解講義を聴聞。六月四日 はじめて武田信晁の日本書紀、河内図書の大学講義を聴聞。六月五日 漢学所御用掛に、聴講加入を申し出られる。六月二七日 父宮と謀り、家政革新。七月一二日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。(註・東京ではすでに四日前の七月八日、行政官布告をもって位宮以外の従来の百官の受領を停められていたが、遠隔の京都にはその布告が届いていなかった)八月八日 別殿構内に仮学問所設置。八月二〇日 邸内武揚の開演に臨み、以後武術のお稽古される。九月一九日 徳川貞子と縁組成る。元十五代将軍慶喜の異母妹。一〇月二日 皇后東行につき、墨一箱進献。一〇月五日 軽い風邪のため、使者をもって皇后東行を奏送させる。一〇月七日 父宮より親王の縁組勅許願出。一〇月一二日 御学問所の講釈日割を改める。一〇月一五日 はじめて竹沢寛三郎の古本大学、伝習講義を聴講。一〇月二三日 東京出向の沙汰がある。一一月一日 京都発(十一月十五日に東京へ着かれてからの一年余の動静は略する)権謀術数に狂奔する新政府高官 維新の鴻業に情熱を傾け、みずから買って出てまで東征大総督の重任を負われた親王であった。親王が幕府的秩序の破壊に身命を賭している一方、京都では、五か条のご誓文、官政改革(太政七宮の制・総裁職廃官になる)、江戸を東京と改称、明治天皇即位、明治と改元し一世一元の制を定めるなど、天皇政権の経綸が着々と推し進められていた。 明治元年十月十三日、天皇が東京に御著輦になるや親王は大総督を辞任、まだ十六歳のお若い天皇を残してさっさと京都へ引き揚げていられる。翌二年三月には東京遷都による東下の命も、固辞して受けられぬ。 『行実』の編者は「その理由は、資料欠如のため今之を詳するを得ず」と述べているがいかにも歯切れが悪い。その後京都におられたこの一年、記録すべき政治的軍事的業績は何一つ残しておられぬ。お若い天皇を民事と切り離し、神的権威にまで吊り上げておいて、そのまわりの地歩を刻々と固めつつある維新の役者たちを横目に、ただ学問と武術と調馬の明け暮れ……世をすねているとしか思えぬご日常ではないか。形こそ王政復古は成した。しかしその裏に親王の見たものは、「百事御一新」の約束とはこと離れ、高給をむさぼり、広大な屋敷に住み、人民を忘れて醜い権謀術数に狂奔する新政府高官たちの姿ではなかったか。立て替えはなっても、立て直しには、やはり虫の食った古材を粉飾して使っている。かといって、親王に何ができよう。皇族という立場など、しょせんは、彼らが政権獲得までの飾り物の帽子であったに過ぎぬ。 参与兼東征大総督軍参謀の西郷隆盛は、明治元年五月、東京を離れて京都へ、翌六月には京都を離れて薩摩へ帰り、何故か中央から遠ざかってしまう。原因は違っても、どこか一脈通じる思いが、親王にもあったかもしれない。 愛する女「世祢」の元へお忍びで通われた印 希望が挫折した時、男はしばしばやり場のない心のうずきを、酒と女によって癒そうとする。親王は、それを調馬に……いや、待てよ、馬といえば世俗にも、よく女を……「調馬之事」が、新しい意味合いをおびて、私に迫ってくる。 繰り返すが、親王は明治元年十一月二十五日から明治二年十一月一日までの一年間、京都にお住みであった。その間に限定して、『熾仁親王日記』に現れる「調馬之事」の回数を調べてみると、最初にこの言葉が記された二月二十一日から京都で最後の「調馬之事」のあった十月二十七日までの二百四十三日間に七十回、三日半に一度の割となる。そしてその間の「日記」(図五)の空白は十四回で、そのうち九回までその前後に「調馬之事〈馬を乗り回すこと〉」の記述がある。まず次表をごらんいただきたい。 そうだ、「調馬之事」とは、愛する女の元へお忍びで通われた印であり、それに前後する空白の日は、そのまま女のそばに居続けられたことを意味するのではないか。空白の日の代わりに「調馬之事」の記述でもよさそうなものだが、それでは日帰りか居続けかの区別がつかぬ。前述したように、「調馬之事」の記述が一度も連続して現れないのは、その為である。 では何故、「調馬之事」の記述を、空白の日の前とか後とかに決めておかれなかったのか。それではあまりに意図が明白で、作為を見破られてしまうおそれがある。親王のような身分で女の元ヘ通う自由があったか、という疑念を抱く読者があるかもしれない。ところがある時期まで、われわれが考える以上に、宮様や政府高官にも自由が許されていたようである。 明治十一年五月十四日午前八時、正三位参議兼内務卿大久保利通が参朝の途中、凶徒のために暗殺される事件が起こる。それが契機となり、特旨をもって次のように決められた。 〔五月廿四日・東京日日新聞〕「有栖川宮二品親王(熾仁親王)、三条、岩倉両大臣に参議諸公の参朝退官の節は、馬車の前後を東京鎮台騎兵(銃を背負い抜刀を持つ) にて護衛しまいらすよう昨廿三日より定められぬ。但し親王、大臣は六騎、参議は四騎と申すこと」 つまりそれまでは、内務卿(内務大臣)の公式参朝でさえ、馬丁と馭者だけの身軽なものである。まして首都の東京に背を向けて京都に住み、今やこれといった公的なお仕事のない独身の親王である。家臣たちにしても、親王が女性の元ヘしのばれると察すれば、そして何らかの形で親王の血をこの世に残したいという願望があったとすれば、むしろほほえましく眺めていたのではないか。 空白表だけなら、三月二十九日より四月三日まで居続けられたように見えるが、三月二十九日には、「調馬之事」のほかに「申半刻過宿直参、朝之事」の記述があるから、これは一種の句読点と考えて、この日は日帰り。そして翌三月三十日から四月三日まで四日間の居続け。さらに二日おいて、六、七、八と三日間。五月には三日間が二回と二日間、六月、三日間、七月、二日間、九月にも十、十一日の二日間の居続けをなさっている。 「調馬之事」の女性がすべて上田世祢であったかどうかは知る手がかりもないが、熾仁親王から世祢に与えられた わが恋は深山の奥の草なれや茂さまされど知る人ぞなき という恋歌から考えても、数少ない逢瀬でないことは知れる。造花のような宮廷の女官ばかりを見なれた熾仁親王である。野育ちの世祢の可憐さ、うぶうぶしさが新鮮な魅力となって、悩み多き親王のお心をとらえられたのであろう。伏見まで馬をとばせられ御酒でも召し上がられれば、つい帰るのがおっくうにもなられよう、世祢が止めたか、親王が帰らぬと言われたか、かくては「調馬之事」と「日記」の空白の続くばかり……。 九月十、十一日の居続けのあと、女の元ヘ外泊された形跡が絶えるのは、一層私の主張を裏付ける。なぜならば、九月十九日に貞子妃との縁組が定まっているからである。さすがに今までのような自由な外泊はできにくいし、家臣たちも自重を望んだであろう。けれど親王の情熱が薄らいだのでない証拠には、「調馬之事」の記録は九月だけで十一回を数える。 それでは、十一月十五日に東京へお着きになってから翌明治三年二月十六日の貞子妃との結婚までに「調馬之事」が十三回もあるのは何故か。世祢と生木を裂くように別れねばならなかった淋しさ、また独身時代最後の名残としての思いもあって、調馬にこと寄せ遊里に足を踏み入れられたのであろう。都の女でも、丹波の野の花でもない江戸の女もまた、それはそれで親王のお心をお慰めしたと見え、厳寒の十二月には九回の多きに達する。しかし「調馬之事」と『日記』の空白の続く日は、一度もない。 御結婚後、「調馬之事」の記録は四回あり、そのうち一度は、三月十三日『日記』の空白、十四日「調馬之事」と続いている。妃との御関係に、しっくりいかぬものがあったのだろうか。けれど四月五日を最後として、『日記』に「調馬之事」が現れることはない。 真の生年月日は知らぬ 私が何を言おうとするか、もはやお察しであろう。私たちは今まで聖師の「明治四年旧七月十二日生」を絶対揺るぎない聖な鉄壁と考え、私もその前でたじろいだものであった。 しかしそれが動かせぬものならば、熾仁親王落胤説はでたらめで、聖師は大嘘つきである。 『更生日記」第二巻昭和六年二月十二日の項に、聖師は、第一次大本事件を回顧して、次の一連のお歌を残しておられる。 前十四首略刑事らに送られ自動車に揺られつ地方裁判所へとつれらる検事局に暫し待たされ予審判事 室につづいて送られにけり何故か理由は知らねど大いなる 嫌疑をうけしことを悟りぬ不敬事件新聞紙法違反など 吾が名記せし調書に悲憤す判事等に生年月日尋ねられ 知らずと吾は直に答へぬ大本の道とく身ながら生れたる 日を知らぬかと判事はなじる西東黒白もわからぬ赤ん坊が 如何して生れた日が知れようか戸籍面に生年月日はありながら 親にあらねば真偽は知らず理屈のみ云ふ男よと判官は 目を丸くしてわが顔にらむ睨まれて睨みかへせば判官は しばらくありてふき出しにけり道の為大君のため尽くす身の 裁かるるわけなしと思ひぬ型の如住所姓名生年月日 調書に記して帰れとぞ云ふさやうなら汽車で綾部へ婦らんと いへば判官監獄といふ監獄ときいていささか驚けど 道の御為とあきらめにけり 後十二首略 聖師が判事をからかわれているように見えるが、この場合、そんなことをする必要はどこにもない。いたずらに判事の心象を悪くするだけで、大きなマイナスである。ただ生年月日を答える簡単な手続きなのに、ここで返事をあいまいにして言質を与えないのは、訴因が不敬事件と知ったればこそである。問う方も答える方も、落胤問題がはっきり意識の下敷きにあったに違いない。 聖師は、ご自分の真の生年月日は知らぬ、と調書にまで述べておられる。それを回顧歌にして、ちゃんと残しておいてくださったと思おう。さあ、これで幾分、私の気が軽くなった。 上田幸吉氏談(昭和四十四年五月十四日取材) 「有栖川宮さまの落胤のことは、母(上田世祢)から聞かされた。聖師さんからは、ちょっとも聞かされたことはない。母は菊の紋のついた片袖(白い小袖・禮子註)をもらったが、それは明治三十四年の火事でも残って、聖師さんが預かっていた。母が死んだ後、聖師さんから「宮さんの巾着みたいなもの預かっとらんか」と訊かれたことはある。母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸してほしくて、伏見に呼んだのや。母は末子やから、どこへ嫁に行ってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さまのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿もろた。母が祖母に打ち明けると、祖母は「こんな結構なことはない」と言うて、とても喜んだ。だから聖師さんが生まれると、一二代続いた吉松の名を廃めて、嬉しいから喜三郎とつけた。二、三ヶ月早く生まれたが、父は気がつかなんだ」 木庭次守氏談 「出口三千麿氏の家で、聖師は『母は親王の胤を宿して帰ってから、父吉松を養子にもらった。だからいつも腹帯をきつくしめて、月満ちて生まれでも、父には七ヶ月児と思わせていた』と私に語られたことがある」 世祢が明治三年春に結婚し、翌四年旧七月に出産したのなら、世祢は夫に七ヶ月児だといつわる必要はさらにない。 聖師は「うちのお母は発展家でなあ、伏見へ預けられたらわしできたんや。丹波よいとこ女の夜這いというやろ」と仰られたこともあった。父はだから可哀想であるとも言われたし書いてある。短冊が二枚あったが、火事で焼けた(実際には救い出された。短冊の一枚は熊野館から行方不明ですが、短冊の一枚は綾部に現存しています)(図六)。落胤の証拠になる物件を置いておくと危ないという考えが母世祢にはあった。それを十分に知っておられたので、聖師は青春時代から阿呆に見せかけられた。十年ほど顔を洗わなんだり、歯茎にはぐそをいっぱいつけたりして(以上出口和明・禮子取材メモから)。 聖師は「わが生まれし十二夜の月を仰ぐたびふるさとの山偲ばれにける」などとしばしば歌っていられるように、七月十二日という日を非常に意義づけ、大事にしていられる。旧七月十二日出生は動かぬが、問題は生年である。