聖師は明治三年旧七月十二日に出生

 明治三年旧七月十二日出生。これが私の考え抜いたあげくの結論である。その日から逆算して上田世祢の受胎の日を推定すると、二百八十日前は明治二年旧十月一日になる。ところが聖師は『昭和青年』五月号の青年たちとの座談会の中で「……人間も女子は二百八十日、男子は二百八十五日で生まれる」と語っていられるので、二百八十五日前にさかのぼると、明治二年九月二十六日になる。 さて、その前後十日ばかりの「調馬之事」の記述は、どうか。明治二年九月二十日、二十二日、二十四日、二十七日、二十九日、十月一日、五日、十三日、非常にひんびんである。大胆な推論であるが、私は、そのいずれかの日に、世祢は熾仁親王の一粒の胤を宿したと信ずる。しかし、その自覚もないまま、別離がせまる。 一〇月二十七日、最後の逢瀬で泣きぬれたであろうのに、世祢はまだ妊娠を知るまい。つわりが始まるのは人によって差があるが二ヶ月前後、すでに親王は、東ヘ旅立たれた後であったろう。頼るべき人を失い途方にくれた世祢は、その暮に故郷の穴太へ帰り、翌明治三年一月十六日(この日のことは後述)、あわただしい結婚をする。腹の子は、聖師が木庭氏に語られたように、まさに三、四ヶ月である。月満ちて聖師が生まれられたのが明治三年七月十二日。だから世祢は母うのと共謀して、夫吉松に「七ヶ月児だ」といつわらねばならなかった。 聖師の生年を一年早めるだけで、恐ろしいほど辻つまが合ってくる。聖師は神童と言われたが、同じ年頃の子より一年早ければ、その天賦の才とともに、一層目立つことだろう。熾仁親王と世祢に鉄壁のアリバイ 最後に戸籍の問題にふれよう。聖師の生年月日を戸籍の上で一年もごまかすことが可能か、ということである。戸籍簿が初めて全国的に施行されたのは、廃藩置県を経て明治五年、壬申の年の二月からである。つまり聖師の生まれられたのは壬申戸籍以前であり、作為ある申告をしたところで、ばれる心配はなかった。 戸籍に聖師の出生年月日の嘘の申告をした張本人は、上田家でただ一人文字の書けた上田うのであろうと思う。聖師の生年月日を遅らせているばかりではない。上田吉松と世祢の結婚については「明治二年一月十六日京都府船井郡平民佐野静六次男婿養子として入籍、明治二年二月六日相続」として、実際の結婚より一年早めた形跡が歴然である。 何のためにその必要があったのか。推理小説には、完全犯罪のアリバイ作りとして、犯行時刻をずらせる手法がよく使われる。結婚後七ヶ月で生まれたことをごまかす考慮よりもさらに重要な理由は、何とかして、熾仁親王の落胤であるという痕跡をかき消し、可愛い孫を安全地帯においてやりたいせっぱつまった親心であったろう。いずれにしても、吉松と世祢の結婚を早め、聖師出生を一年遅らせることで、熾仁親王と世祢に鉄壁のアリバイができたのである。 聖師の生年月日の疑問を提出することは、私にとって、どれほど勇気が必要であったか、読者にもおわかりいただけると思う。聖師の満五十六才七ヶ月の昭和三年三月三日にしても、昭和六年、聖師還暦の更生のみ祭りにしても、すべて明治四年出生を前提としてのことである。神定のその日を、私はこの手でガラガラと突き崩す気などさらにない。断言してはばからぬが、現実界はどうあれ、戸籍に登録された明治四年旧七月十二日こそ、まぎれもなく聖師の出生が神界に登録されたその日である。実際の出生日と登録された出生の日の違う人は数多くある。私の母八重野も、実際の出生日と戸籍の出生日が違う。ひのえうま生まれの女子が生年さえごまかすことは、すでに社会問題になっている。ともあれ実際の出生日がどうであろうと、小学校へ行く年も、かつての徴兵検査も、戸籍の日によって定まる。生年月日による占いにしても、実際の生年月日ではなく、戸籍による生年月日で判断する。私にとっても、神界にも、戸籍にも登録された明治四年七月十二日は、やっぱり動かすことのできぬ神聖な日なのである。