七ヶ月児と思われた聖師

 さて、上田世祢の祖父、中村孝道の縁で上田世祢が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったことがわかりました。 聖師の弟、豊受大神を祭る京丹後市峰山の比沼麻奈為神社の神主を三十年ほどつとめていた上田幸吉氏の証言によれば、「母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸して欲しくて、伏見に呼んだのや。母は末っ子やからどこに嫁にいってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さんのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿(明治三年一月十六日入籍)もろた。母が祖母に打ち明けると祖母は「こんな結構なことはない」と言うてとても喜んだ。だから聖師さんが生まれると二代続いた吉松の名を廃れて、嬉しいから喜三郎とつけた。二、三ヶ月早く生まれたが、父は気がつかなんだ」。聖師が七ヶ月児と思われていた証言です。 先月号でご紹介した老婆の書いた「調査団宛の手紙」の冒頭を再読してみましょう。書いた老婆の指摘する明治初年の年代は、明治二年の一月一八日から二月三日、行程を考えると、おそらく一月二十日頃に暗殺されたものと思われます。 明治政府にとり、和宮は生かしておくには危険すぎる女性だった。つねに天皇と皇女和宮は同じ場所にいてはいけない。天皇が江戸にいるときは、和宮は原則、京都にいなければならない。だから天皇は、好きな京都へ行くことはできない。…でも和宮を暗殺できれば、それが一番憂いがない。 二月一六日 すでに朝議は東京遷都に決していたが、天皇の再度東幸について、有栖川宮熾仁天皇はお留守取締りを命じられます。岩倉具視らによる和宮暗殺の情報は、遅滞なく熾仁親王の知るところとなったでしょう。そして二月二一日、『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれ、有栖川宮熾仁親王は世祢と会うことになります。おそらく場所は伏見の船宿でしょう。三月三日 来る四月十日までに(明治天皇に)寒月下向のことを沙汰される。三月六日 参内し、東京下向を辞退する。三月七日 天皇東幸を奏送する。 熾仁親王は天皇の命令を拒否したのです。 私は当初、有栖川宮熾仁親王が東京行きを拒否したのは、明治天皇が大室寅之祐と知って、その偽の天皇にしたがうのが嫌さに拒否したのだと思いました。しかしよく考えると、熾仁親王は、孝明天皇暗殺にはまったく関与していないものの、明治維新総裁を引き受けた時点で、すべてのことは呑み込んでいたはずです。ここで東京行きを拒否するのは、男児としてあまりにも情けないと思います。「毒をくらわば皿まで」ではないですが、新革命政権とともに、新しい日本を立ち上げなければならないお立場であったでしょう。しかし、一月下旬に、愛する皇女和宮が岩倉具視たちの手で暗殺された、その背後には当然、大室寅之祐、明治天皇がいたと知るならば、熾仁親王は東京にいくつもりになるでしょうか。 七月二一日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。ありえないことと思います。和宮の死が重ならなければ。 しかし東京行きを拒否する理由がもうひとつありました。皇女和宮が自害した後、少なくとも明治二年二月二十一日から京都で最後の「調馬之事」のあった十月二十七日までの二百四十三日間に七十回、三日半に一度の割となる。そしてその間の『日記』の空白は十四回で、そのうち九回までその前後に「調馬之事」の記述がある。私はこの間の空白の時は、有栖川宮熾仁親王はほぼすべて上田世祢との逢瀬をしていたのだと思います。官名を返上するという方法で、和宮を暗殺した(かもしれない)政府に対し、怒りをあらわにした。有栖川宮熾仁親王は、徳川家茂なきあと、皇女和宮との婚姻を真剣に望んでいた。和宮なきあと結婚を望んだのは、出口王仁三郎の母、上田世祢とだったのだと思う。深山の草 出口和明『大地の母』第一巻一章(みいづ舎)を引用してみましょう。 深山の草 日は天から地から暮れかかる。木枯らしは、いつか細かい雪をまじえていた。その天と地の灰色のあわいを、旅姿の娘が行く。翳った瞳が時おり怯えてふりむく。雪の野面を烏が舞い立つ羽音にも……。伏見より老の坂を踏み越えて山陰道を西へと故郷に近づきながら、娘の足どりは重い。亀岡(現京都府亀岡市)の城下町も過ぎ、歩みを止めたのは丹波国曽我部村穴太(現亀岡市曽我部町穴太)の古びた小幡橋の上であった。犬飼川が両岸を薄氷にせばめられ、音もなく流れる。指が凍てつく欄干の上をなでる。国訛の人声が近づく。びくっとして、娘は橋を渡り、石段を三つ四つ、続いてまた四つ五つ降って石の鳥居をくぐり、小幡神社の境内に走りこむ。おおいかぶさる森を背に、小さな社殿があった。その正面には向かわず、右手の大桜の幹にかくれてうずくまる。 誰にも言えぬ、娘の身で妊娠などと。死ぬほど恥ずかしい。伏見の叔父の舟宿に養女に望まれて行ったのは十九の年、まだ都の風にもなじまぬ世祢であった。叔父は伏見一帯の顔役であり、勤皇方の志士たちとのつながりが深かった。早朝あるいは深夜ひそかに舟宿に集う人々の中に、あの方はおられた。僧衣をまとい、深く頭巾をかぶったお姿だった。 叔父は心得たようにすぐ奥座敷へ招じ入れ、接待には世祢一人を申しつけ、他の女たちを寄せつけなかった。叔父も、同志たちも、敬慕と親しみをこめて、あの方を「若宮」とお呼びしていた。若宮が何さまであるかなど、まだ世祢は知らない。けれど二度三度おいでのうちに、あの方はなぜか世祢に目を止められ、名を問われた。そんなある夜、驚きと恐れにおののきながら、世祢は引き寄せられるまま、固く眼をつぶった。抵抗できる相手ではなかったのだ。それに…それにお名を呼ぶことすらためらわれるあのお方を、いつか待つ心になっていた。雲の上の出来事か妖しい夢のようで、現実とは思えなかった。幕末から明治へと激動する歴史の流れが、世祢を押しつぶした。東征大総督宮として江戸へ進軍されるあの方は、もう世祢の手の届かない遠い人。江戸が東京となり、明治と年号が変わり、天皇は京を捨てて東へ行かれる。虚しい日々が過ぎて一年、若宮凱旋の湧き立つ噂さえ、よそごとに聞かねばならぬ世祢であった。 明治二(一八六九)年の正月も過ぎ桜にはまだ早いある朝、何の前触れもなく、あの方は小雨の中を馬を馳せていらした。あわただしい逢瀬であった。言葉もなくただ世祢はむせび泣いた。ここにあの方のお胸があるのが信じられない。待つだけの世祢のもとに、たび重ねてあの方は京から来られる。帝は京を捨てても、あの方は京に残られた。夏が過ぎ、そして秋――最後の日は忘れもせぬ十月二十七日の晴れた午後。深く思い悩んでおられる御様子が、世祢にも分かった。「これぎりでこれぬ。帝がお呼びになるのじゃ。これ以上逆らうことはできない。東京に住居をもてば妻を迎えねばならぬ。達者で暮らしてくれ、世祢……」 あの方は、いくども世祢を抱きしめ、抱きしめて申された。何も知らなかった田舎娘の世祢にも、あの方のお苦しみがおぼろに分かりかけていた。京の人々の口さがない噂では、あの方は、帝のおおせで、水戸の徳川の姫と御婚約なさったとか。けれどあの方は、仁孝天皇の皇女、先の帝のお妹にあたる和宮さまが六歳の時からの婚約者であられた。同じ御所うちに育ち、その上父宮幟仁親王さまの元に書道を習いに通われる幼い和宮をいつくしまれつつ御成人を待たれて十年、やっと挙式の日取りも決まる時になって、和宮は公武合体の政略に抗しきれず、贄となられて関東に御降嫁。 しかしあの方は、未だに深く宮さまを慕っておられる。二十一歳にして前将軍家茂未亡人静寛院宮と変わられ、江戸におられる薄幸の人を――。東征大総督として江戸城明け渡しの大任を果たされたあの方は、天皇の叔母君であられる和宮さまを御所に呼び戻し、改めて結婚を許されるよう、帝に願い出られたそうな。総督としての官職を捨て臣籍に下りたいとまで嘆願なされたと聞く。帝は、いまだ治まらぬ天下の人心を叡慮され、風評も恐れぬあの方の情熱を許されなかった。その上、亡びた徳川一門の繁姫〈徳川貞子〉の御縁を、あの方によって再び結ぼうとなされたのだ。三十五歳になられる今まで、あの方が親王家として前例のない独身で過ごされたのも、ただ和宮さまへの変わらぬ真心であったものを。 東京遷都の美々しい鳳輦御東行のお供も辞し、官名を返上されて、あの方は京に残られた。しかし勅命でお呼び寄せになられれば、どうして逆らうことができよう。――うちは、あの方のなんやったんやろ、と世祢は思う。思うそばから、考えまいとふり切った。お淋しいあの方のために、一時の慰めのよすがとなれたら……。ただそれだけで、うちは幸せなんや。供を一人連れただけのお身軽ないでたちで、あの方は去って行かれた。絶えまなく船が行きかう川べりを駆け抜けていかれる最後の馬上のお姿が、世祢の瞼に焼きついて離れない。懐妊に気づいたのは、極月に入ってからであった。あの方は知らない。東の空の下、帝のお傍で、多忙な公務に明け暮れておられよう。訴えるすべさえわからぬ世祢であった。 ある日、事情に気付いた船宿の朋輩の一人が世祢の様子をうかがい、おどすように忠告した。「有栖川の若宮さまの落胤は、男やったら攫われて殺されるそうどすえ。気いつけやっしゃ」「ちがう。うち、身ごもってまへん」世祢は強く否定した。にらんだ下から、唇が褪せた。故郷が狼狽する世祢を招いた。養女に望んでいた。 けれど世祢は、引き止められるのを振り切って、伏見を発った。思いつめて戻っては来たものの、父母の住むわが家に、すぐにはとびこめない。かじかむ手を合わせ、産土さまにすがりながら、暗くなるまでここにいようと世祢は思った(引用終了) なお、誤解されがちですが、「深山の草」とは、上田世祢のことではありません。有栖川宮熾仁親王の、世祢に対する恋心がつのる様子を、深山の草の誰もしらないが茂る様子に例えたものです。