和宮はなぜ暗殺されたか

 ある人は、新政府が和宮を暗殺するには、根拠が薄弱ではないか、和宮を暗殺しなくとも、他の宮家や貴族にしたように口封事さえできればよかったと。そのことを考えてみました。 この文中に出てくる「繁姫」とは、徳川貞子(図八)(嘉永三年(一八五〇)旧十月二七日 ~明治五年(一八七二)旧一月九日)のことです。徳川斉昭の十一女として駒込の水戸藩下屋敷に誕生し、書は有栖川宮幟仁親王から学んでいます。慶応三年(一八六七年)に兄徳川慶喜の養女として、皇女和宮との婚約破談後の有栖川宮熾仁親王と婚約します。嫡母吉子女王及び長兄慶篤の正室幟子女王も有栖川宮出身であり、水戸徳川家と有栖川宮は縁戚関係にありました。しかしその後、徳川慶喜の大政奉還により婚姻が延期され、そして翌明治二年(一八六九)、九月十九日、徳川斉昭娘貞子と再度婚約しました。十一月七日、婚約勅許。明治三年一月十六日、徳川貞子と結婚、四月三日、熾仁親王は維新政府の兵部卿に就任しました。 有栖川宮家は、皇族の代表であり、和宮に代わり有栖川宮が徳川家との姻戚関係を続けることで、武家に口封じをし、かつ日本統一の礎にしようとしました。もし徳川家に嫁入った和宮が有栖川宮と再婚するならば、公武合体の意味は水泡に帰しかねないし、また徳川貞子は最後の将軍、徳川慶喜の養女であり、異母妹です。熾仁親王の許嫁、皇女和宮の夫である徳川家茂を殺したのが、徳川慶喜(図九)と信じられており、その慶喜の養女、すなわち娘と結婚することは、仇の娘と結婚するようなもの、熾仁親王としてなっとくできるものではありません。また、大室寅之祐明治天皇からすれば、家茂暗殺の口封じのためには、熾仁親王と貞子妃の結婚が望ましいとこです。 貞子妃は結婚の二年後、熾仁親王が藩知事として福岡に赴任中に丹毒を病み、東京の有栖川宮邸にて死去。東海寺に葬られました。江戸城大奥最後の日 私は和宮と有栖川宮の関係を明かにするため、熾仁親王の江戸城入城の記録が欲しいと思いました。大奥は熾仁親王が率いる官軍に明け渡しが決まっていたのですが、そのような中、「江戸城大奥最後の日」というテーマで次の文章が見つかりましたので、部分引用させていただきます(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本)。 十二代将軍家慶の時分、大奥の年間経費は二十万両といわれた。四十万石大名の一年間の収入に近い金額である。それが和宮の降嫁があった文久元年(一八六一)の末以降、毎年四、五万両ほど超過して、そうでなくてさえ苦しい幕府の財政を圧迫した。一橋慶喜は将軍となるや、大奥御年寄りの反対を押し切って、ただちにハーレムの経費節減を勘定方と御広敷御用人(大奥の用を総括する役儀)に命じた。御台を江戸城大奥に入れていない彼にとって、時局をわきまえない女どもの蕩尽ぶりは、耳にするさえ苦々しきかぎりであったし、もはやその存在意義さえなくなった大奥は、単に無用の長物でしかない。ために、その節減策は徹底をきわめた。「衣服は、できるだけ洗い張りをして着用させよ」「年二回の畳替えも今後は一回、場所によっては裏返しですますこと」「時節柄、外出や物見遊山、贈答などを自粛せよ」 このほかにも、もろもろの節減項目が勘定方より御広敷御用人に指示された………和宮と天璋院の不和 皇女和宮(後の静寛院宮)が将軍家に降嫁して江戸城に入られた頃、大奥には先代家定の未亡人天璋院篤姫(図十)をはじめ、家定の生母にあたる本寿院、将軍家茂の生母である実成院が、別殿で多数の侍女たちにかしずかれて起居していた。勝海舟(図十一)の遺談によると、天璋院付きの女中は二百六十人、和宮付きは二百八十人いたという。これら多くの女性を中心に形成された大奥の生活は、きわめて複雑かつ煩瑣に堪えないものがあり、日常の容止〈立居振舞〉から諸行事の執りおこない方、交際、衣装等にいたるまで都振りと江戸風のちがいがあって、京都育ちの女官たちは、何かといえば江戸の生活慣習をさげすむところがあり、何かにつけてこれがいざこざのもとになった…… 和宮の一行をむかえる幕府の態度は、おしなべて不誠実で、これが宮に供奉してきた朝臣や侍女たちを憤慨させた。女官たちの諍いに困惑した岩倉具視は、江戸から京の正親町三条実愛(議奏)に書を送り「(宮付きの女官たちの)居所、食物類何れも厳敷もの、由、針妙(裁縫にたずさわる下級の召使い)向きは泣き暮し候。一口にだまされたと申しおり候由にて、これは昨日、中卿より噂にて三浦へ段々申し聞け候所、大仰天にて早速取調に掛り候由に候。何かごてごて行違いばかりにて……」と報じている。 こうした諍いはその後も尾を引くが、文久三年九月、朝廷内儀の大典侍(女官長)中山績子から庭田典侍あてに、「嫁した以上は徳川家の風儀にしたがい、諸事和するように」との、きつい達示がとどいた。後宮(御所)と大奥(江戸城)の葛藤といっても、具体的には姑にあたる天璋院と和官の感情のもつれで、両者を取り巻く女官たちの角突き合いが、この諍いをいよいよ過熱させた。 和宮の側では、あくまで皇女たる立場を堅持しようとし、天璋院のほうでは姑としての立場を明示しようとする。姑といっても和宮よりわずか十歳の年長で、宮の入輿当時はまだ二十六歳にすぎない。現代感覚からいえば未婚の女を連想するが、十四、五歳で結婚した当時においては、すでに肉置ゆたかな姥桜の観があった。片や若い和宮には京おんなに共通の肌の白さ、きめのこまかさがあり、深窓育ちの貴女の匂やかな香りが鼻先をくすぐるが、花の盛りをすぎた天璋院はその香しさも失せ、本つ根〈男根〉の坐さぬ家定に嫁して、生理的に干乾しにされてきた欲求不満が臓騒となって、その面相をきつくしている……。 慶応四年正月十二日、上方の戦に敗れて慶喜が江戸に逃げ帰ると、大奥の女中たちは青くなって騒ぎ立てた。遠い寿永のむかしの、壇ノ浦における平家女官輩の哀れな末路を思い浮かべたのである。「表の役人にも増して立ち騒ぎしは、かよわ心の住み処、大奥の一構なりけり。世は如何に成り行くべきなど、さわ寄れば障れば語り合ひ……」(『定本江戸城大奥』より、以下おなじ) 江戸城に入城した大総督有栖川宮熾仁親王(『幕末・明治文化変遷史』より) 慶喜は朝敵の汚名をそそぐため、天障院と静寛院宮とに朝廷へのとりなしを頼んだ。二人はそれぞれ御年寄に嘆願書を持たせて都へ急行させた。 しかし、和宮をこよなく慈しまれた孝明天皇はすでに身罷られ、十七歳の明治天皇は討幕派の公卿たちにガードされて、大奥差遣の御年寄ときいても、だれも一顧だにあたえなかった。もはや大奥に往年の神通力はなかったのである。そうこうするうち、三月十三日におこなわれた西郷・勝会談で、江戸開城は四月十一日と決まった。それを受けて四月八日、大総督府より江戸城明け渡しの命令が徳川家に下り、大奥(図十二)も開城の日までに立ち退くように言い渡された。 十一日まであと三日しかない。「よって当時江戸表に彷徨いおける閤老、参政等協議の上、静寛院宮様ならびに実成院殿を田安御殿へ、天璋院殿を一ツ橋御殿へ、また当時一ツ橋に在らせられける慶喜公の御台所を小石川御館梅の御殿へ移し参らすることに定め、その儀諸院に上申しけるに」天璋院のみ動く気配がない。 「水戸表へ立たれた前将軍の先途も見とどけずに、城を明け渡すとは何ごと!」というのが彼女の言い分である。筋が通っているだけに諸役も困り果て、ない知恵を絞ったあげくが、三日間だけの立ち退きと申しあげてだますことにし、岩佐摂津守がその旨を伝えた。九日は日暮れまえのことで、天璋院も「三日間なら」とあっさり諒承した。急に引っ越しのお供を命ぜられた女中たちは二日のうちに立ち退くと聞いて、そのあわてざまは尋常ではない。タモン(部屋の走り使い)を生家へやって母や妹に手伝わせる者がいたり、長持に手当たりしだい衣類や調度品などを詰めこんで、荷札をつけて送り出すなど、男顔負けの力仕事に汗だくの体。……かくて天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった。がらんとして人気のなくなった大奥には、長局(奥女中)一人と、大奥の御用をつかさどってきた御広敷役人三、四十人がひかえているだけ……。外は陽光燦々たる若葉の季節というのに、ここ大奥は寒々として咳 ひとつない。「(御広敷役人が)物寂しげに額集めて、今宵一夜をこの空寒なる大広間に明かすことかと思えば、いと心細くあわれを催し、しばらくは語もなくてありしが……」 「イザ立退かれよと御日付の指図に、役人は一同御広座敷に集り、着座して紅葉山の方に向いて再拝し、御先祖代々、我々も代々昼夜を別たず出仕せし大奥も、今日よりぞ永の別となるべしとて、顔見合せて今更らの如くにかこち……」 万感胸にせまって目頭を押さえながら部屋を去り、名残惜しげにあとを振りかえりつつ、ともすれば立ち止まりがちな自分を叱陀して平河口にさしかかったのが、いつもなら下城時刻の七ツ時(午後四時)。橋を渡り終えて、ふと右手を見ると、ちょうど薩州の兵五大隊が隊伍を組み、鼓笛を打ち鳴らして意気揚々と城へ繰りこむところで、「(その整然たる行進の)心悪くさよ」と「定本江戸城大里」の記述にある。 翌四月十二日、官軍諸藩は西の丸、大手、坂下、桜田、竹橋、清水、田安、矢来、馬場先、雑子橋、一橋の各門を固めた。そして大総督有栖川官熾仁親王が入城。江戸城は二百六十五年にわたる歴史の幕を閉じた。(栗原隆一「江戸城大奥最後の日」『将軍家・大名家、お姫様の明治維新』別冊歴史読本。) さて、有栖川宮熾仁親王があえて江戸城無血開城のための大総督をかって出たのは、江戸を戦火から守るためと、愛する元許嫁、皇女和宮親子内親王を救い出すことでした。江戸城無血開城のときに、「天璋院は着替えの衣類と化粧道具を用意しただけで、十日、本寿院と一橋御殿に引っ越した。静寛院宮もその翌日昼すぎ、七年近く暮らした大奥に名残を惜しみながら、実成院ともども田安御殿に移っていった」としています。