皇女和宮と熾仁親王との再会再現!

 明治二年一月に有栖川宮が家茂なき後結婚を望んだ和宮が岩倉具視らにより暗殺されましたと考えます。その悲しみが熾仁親王と上田世祢を結びつけることになったのでしょう。 しかしその説を主張するためには、明治十年に逝去したとされる和宮の公式記録と明治二年に逝去したとする時間の差をどう説明するかが問題となります。明治二年以降に替玉としての新しい和宮が現れなければならない。 そして仮説に過ぎませんが、私は、和宮にもっともふさわしい女性として、南部郁子妃(図十三)を考えてみました。「皇女和宮」写真は別人?読売新聞朝刊の記事 皇女和宮と見なされた女性が三人いた可能性がある…。有吉佐和子の小説でも三人説を唱えていますが、あくまで小説であり、特定の名前が示されることはありませんでした。 有栖川宮熾仁親王の許嫁であった、愛する和宮が、明治二年に天皇権力を背景にした岩倉具視らに暗殺されたことが疎明されるならば、熾仁親王が天皇の命令に逆らってまで、東下を拒否し官名を返上して京都に留まり、その結果、聖師の母、上田よねと出会ったストーリーが納得いくものとなるわけです。 しかしそれが仮に事実としても、そのような事実は徹底的に関係者の間で隠蔽され、消される。だからこそ、母・禮子は和宮が暗殺された年を、公式の没年どおり明治十年としたはずです。 そのような中、二〇一一年六月十六日に、読売新聞朝刊に目を通した私に、「皇女和宮 写真は別人?」という見出しが飛び込みましたので、全体を引用します。(引用)十四代将軍・徳川家茂の正室、皇女和宮の肖像とされてきた古写真が、明治時代の雑誌に別人として紹介されていることが、古写真研究家の方の調査で分かったそうです。知られている古写真は小坂善太郎・元外相の祖母が所有していたもの。台紙の裏側に「静寛院和宮」と書き込みがあり、祖母の一九二八年の日記にも「明治天皇の皇后、昭憲皇太后の女官の証明で、和宮様の写真であるとわかった」旨の記述があった。また、徳川家も同じ写真を所有していることから、和宮の写真として認知されてきた。 しかし同じ写真が明治三五年発行の雑誌「太陽」に、昭憲皇太后の姉で、大和郡山藩藩主の正室、柳澤明子の肖像として掲載されているのを古写真研究家が確認。  写真の人物が「大垂髪」という貴族の髪形で、家茂の死後髪を切った和宮とは考えにくいことや、別の明子の写真にも同一とみられる人物が写っていることなどから、「和宮とされる女性は、明子である」と判断した。「昭憲皇太后の姉である明子が、和宮と混同されて伝えられたのでは」と推測する。  これに対し、古写真に詳しい日本写真芸術会評議員の方は、説得力はあるが、雑誌が間違っていることもあり得る。写真は角度などで別人でも似て見える場合があり、断定は難しい。ただ、確実に和宮といえる写真はまだ見つかっておらず、これまでの和宮像を再検討する契機になる」と話している(二〇一一年六月十六日 読売新聞)(引用終了)発見された静寛院宮(和宮)の写真 私は読売新聞の記事をもとに、そのニュースソースである『歴史街道』平成十一年七月号を購入し、古写真研究家 森重和雄「皇女和宮の真実」からその主張を読みましたので引用します。(引用)テレビや歴史関係の本で皇女和宮の肖像写真として広く一般に紹介されている写真(図一)がある。この写真は僕が知る限り、最初は『歴史読本特集最後の幕臣一一五人の出処進退十二月号』(新人物往来社一九九三年十二月一日発行)の解説・岩尾光代、撮影・坂田薫「皇女和宮謎の肖像 小坂善太郎元外相宅で発見された一枚の写真」という記事で紹介された。 それによれば、この肖像写真は小坂善太郎元外相の祖母繁子さんの遺品で、長野市の自宅に保存されていたものだ。写真は金属製の軍扇の裏側に差し込み式で入れられており、写真台紙の裏側には「静寛院和宮」(図二)という書き込みがある。しかも、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の女官高倉寿子が、和宮の写真であることを確認したことが繁子さんの日記(図三)に書かれているという。昭和三年(一九二八)一月二十七日の「静寛院宮様のお写真の事 京都高倉寿子様の証明にて相わかりうれしき事この上なし」という記述がそれで、これを根拠に、この写真は、皇女和宮の肖像写真であろうと言われてきた。 また平成十五年に江戸開府四〇〇年記念として江戸東京博物館で開催された「徳川将軍家展」でも、「静寛院宮(和宮・親子内親王)」(徳川恒孝氏所蔵)の肖像写真としてこれと全く同じ写真がパネル展示されている。この肖像写真は、「第九六号  静寛院宮御潟真」と墨書きされた別紙と共に徳川家で見つかっている。…和宮の写真ではない? 平成二十一年のある日、いつもいろいろとご教授いただく新選組研究の第一人者・釣洋一先生が経営されている四谷三丁目の「春廻舎」で、僕はいつものように歴史関係の話題で盛り上がりながら酒を飲んでいた。ちょうど同席されていた明治初期軍装蒐集・勲章研究の第一人者・平山晋先生が、「森重さん、皇女和宮の肖像写真と世間で思われている写真があるけれど、あれは実は違うのではないでしょうか」と言い出した。 「それはまた……どういう根拠があるのですか」と尋ねると、「全く同じ写真が明治時代の雑誌『太陽』に掲載されていた。それによればこの写真は皇女和宮ではなく、大和郡山藩最後の藩主・柳澤保申夫人、柳澤明子の写真だそうです。ぜひ調べてみてください」と、平山先生は朴訥な口調でおっしゃった。 こういう依頼は僕のような古写真探偵としては実に興味深い。そこでまず、いつも調べ物をする際によく行く、広尾の東京都立中央図書館に足を運んだ。和宮の基本的な参考資料に目を通す必要があるからだ。平山先生が教えてくださった雑誌『太陽』の該当記事をこの目で確認する必要もある。…薙髪して静寛院と称した まずは皇女和宮の簡単な略歴を紹介しておくことにしよう。 和宮親子内親王、弘化三年(一八四六)閏五月十日~明治十年(一八七七)九月二日、仁孝天皇の第八皇女。孝明天皇の異母妹。 嘉永四年(一八五一)七月、有栖川宮熾仁親王と婚約したが、幕府は公武一和の対策として将軍家茂への降嫁を奏請。和宮は天皇の苦衷を察し、またこの間種々の策動も行われたため、やむなく承諾。十月勅許され、文久二年(一八六二)二月、婚儀が行われた。しかしわずか四年余にして慶応二年(一八六六)七月、家茂は長州再征の途上、大坂城において死去。和宮は薙髪して静寛院と称した。やがて王政復古なった明治元年(一八六八)正月、和宮は徳川慶喜の懇請を受け、侍女を上京させて徳川の家名存続を嘆願するなど婚家のために尽力。江戸開城にあたって清水邸に移り、翌二年、京都に戻る。 明治七年(一八七四)、再び東京に移居。しばし平穏な日々を送ったが、十年(一八七七)九月、脚気治療のため湯治に赴いた箱根塔ノ沢の旅館で薨去。享年三十二歳。※日本歴史学会編『幕末維新人名事典』(吉川弘文館、昭和五十六年)をもとに作成 ここで注目したいのは、「宮は薙髪して静寛院と称した」という点である。このことは諸書に出ているが、調べてみると、慶応二年十二月十九日に和宮は薙髪している。二十一歳の時だ。このことは例えば寺門咲平『静寛院宮』(静寛院宮刊行会、昭和九年)には、「(前略)京都を立ち出でられた時とは全くお変わり果てた御薙髪の御姿で懐しき御思い出の京の土を踏ませ給うたのであった(後略)。」と書かれていることから、慶応二年に薙髪してから、明治二年一月十八日に東京を発って、二月三日に京都に帰住するまで、和宮は薙髪であったことがわかる。 薙髪の意味を辞書で調べてみると、「髪を切ること。髪をそり落とすこと」とある。しかし、「皇女和宮の肖像写真」の女性の髪型は薙髪ではない。どう見ても大垂髪(おすべらかし、または、おおすべらかし)である。大垂髪とは、「平安時代の貴族女性の髪形。本来は自然のままに髪を垂らした姿を言うが、肩の辺りで髪を絵元結で結んでその先を等間隔に水引で束ねていく〈元結掛け垂髪〉も〈おすべらかし〉と呼ばれることがある」と辞書にある。これでこの写真の女性は和宮ではないという仮説が立てられる。少なくとも和宮が薙髪していた慶応二年十二月十九日から明治二年二月三日までの聞に撮影されたものでないことは確かだ。 薙髪した慶応二年十二月十九日以前に江戸で撮影されたという可能性もなくはないが、だとすればこの「皇女和宮の肖像写真」は二十一歳以前のものということになる。しかし、いくらなんでもそういう歳の女性とは僕には見えない。 撮影年代についての可能性をさらに探ってみよう。和宮が再び東京(東京市麻布区市兵衛町一丁目十一番地)に移住するのは、二十九歳の明治七年七月八日。このときから、亡くなる明治十年九月二日(二十九~三十二歳)の聞に、東京で撮影された可能性は確かにあるわけだ。