昭憲皇太后の御姉君

 次に、問題の雑誌『太陽』のバックナンバーを調べてみることにした。 その結果、平山先生がおっしゃっていたのは、『太陽』第八巻第二号(博文館、明治三十五年二月発行)の「物故諸名士」(亡くなった名士たち)という口絵写真(図四)であることがわかった。そこには、上段に一点、下段に二点の写真が並んでいるが、その右下の写真が、驚いたことに、「皇女和宮の肖像写真」とまったく同じ写真なのである。説明文には「故・柳澤明子刀自 THE LATE MADAM,A.YANAGIZAWA」と記されている。しかもこの口絵写真の次ページ(裏)には、以下のように書かれていた。「故・柳澤明子刀自は柳沢保蕙伯の養母にして、皇后陛下の御姉君にあたらせられる、一月八日を以て薨去せらる(後略)」(振り仮名と傍点、森重)。 さっそく調べてみると、この柳澤明子という女性は、平山先生がおっしゃったとおり、大和郡山藩最後の藩主柳澤保申の正室、幕末の公卿左大臣一条忠香の娘(弘化三年十月二十三日生れ、二女)であることがわかった。それならば、大垂髪姿であることは納得がいく。 柳澤明子が亡くなったのは明治三十五年一月八日(五十七歳)である。だから、翌二月発行の雑誌『太陽』第八巻第二号にその死が報じられているのだ。 このことからこの写真の女性が故柳澤明子刀自であることは疑う余地はないと思われる。 念のため、他に柳澤明子の写真はないかと探してみると、森田義一編『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和大和郡山』(国書刊行会、昭和五十四年八月十日発行)に別の立姿の写真(図五)が見つかった。少々写りは悪いのが難だが、この写真の柳澤明子も大垂髪姿である。明治初年の結婚時に撮影されたものとされている(国書刊行会刊)。〈恒注 明治初年と言えば、和宮が暗殺されたと推定される頃か?〉 もう一度、例の「皇女和宮の肖像写真」をよく見てみると、女性が腰かけている椅子の特徴的なデザインに見覚えがあった。 この椅子は東京の清水東谷の写真館で使用されていた小道具なのである。このことは、古写真蒐集・研究家の石黒敬章氏所蔵の、清水東谷の写真館で撮影された名刺判写真(図六)と比較すれば確認できる。絨毯の柄もまったく同じだ。つまりこの「皇女和宮の肖像写真」は、清水東谷が撮影したものなのである。…いまだに残る謎 ではなぜこの写真が「第九六号 静寛院宮御潟真」と墨書きされた別紙と共に徳川家で見つかったのか?またなぜ小坂善太郎元外相の祖母繁子さんの遺品としてあったのか?謎である。柳澤明子は一条忠香の娘であり、雑誌『太陽』の記事にあったように、「皇后陛下の御姉君」、つまり昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の姉である。これは僕の仮説にすぎないが、このことが和宮と混同され、誤って静寛院宮として伝えられた原因なのではないだろうか。 前出・小坂繁子さんの昭和三年一月二十七日の日記には「静寛院宮様のお写真の事、京都高倉寿子様の証明にて相わかりうれしき事この上なし」とあるが、しかし、高倉寿子は天保十一年(一八四〇)生まれで、昭和五年(一九三〇)一月二十七日に数え九十一歳で亡くなっている。昭和三年一月二十七日当時は八十九歳という高齢であったことから、この記述の内容も何かの間違い(高倉寿子の見間違い)ではないだろうか。高倉寿子は一条忠香に仕えていたのだから、記憶さえしっかりしていれば、一条忠香の二女・柳澤明子のことを知らないはずはないと僕は思うのである。…「洋装姿の和宮」 これとは別に「洋装姿の和宮(数の宮)」(図七・八)という別の写真がある。ついでながら、こちらも和宮の写真ではない。なぜならばこのような上流婦人の洋装姿は、鹿鳴館時代(明治十六年~明治二十三年)以降のものであるからだ。和宮は明治十年にすでに亡くなっているのだから、この洋装姿の女性は和宮ではありえない。 これについてもさらに調べてみると、吉田義昭・及川和哉編著『図説盛岡四百年下巻〔Ⅱ〕』(郷土文化研究会、平成四年)にまったく同じ写真(図九)が掲載されており、この洋装姿の女性は旧南部藩に関係した女性であることがわかった。さらに、大久保利謙監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像第一巻』の「盛岡・南部家」の四十一頁左下の三人の集合写真に同じ顔の同一人物を発見した。この洋装姿の女性は、盛岡藩第十五代・南部利恭(最後の盛岡藩主)の姉、南部郁子という女性だったのである。彼女は後に華頂宮博経親王妃になっている。 面白いことに、この華頂宮博経親王妃・郁子の写真も、東京の清水東谷の写真館で撮影されていた。従来、和宮として紹介されてきた写真は、大垂髪姿も洋装姿もそれぞれ和宮ではないものの、同じ写真師・清水東谷の写真館で撮影されていたのだ……(引用終了)(ここまでの写真は、『歴史街道』平成十一年七月号より転載)